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広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?《10月》

 
 
1 広島市の人口22万4100人(1947),フロイド・シュモーの建設した『ヒロシマの家』完成(1949),ABCC原爆被爆生存者の全国調査実施(1950)
2 長田新編『原爆の子』刊行(1951),イギリス初の原爆実験成功(1952),第12回アジア競技大会広島が広島ビッグアーチで開幕(1994)
3 アイゼンハワー米大統領が核実験禁止に関する岸書簡に回答「核兵器の製造およびその他の軍備について有効な制限が存在せず、また核兵器を用いて行われる可能性のある奇襲を防止するための査察を、すべての主要国が受け入れることなしに実験は停止できない」(1957),ソ連政府の招きによりモスクワの病院で治療を受けていた長崎市の原爆乙女の一人が3年3か月ぶりに帰国(1961),宇品町の広島『憩いの家』で『被爆者の集い』1000回記念祝賀会/参加人員延べ5万3000人(1965),アイゼンハワー元米大統領が記者会見で「私が大統領だったら、ベトナム戦争の早期終結のためには核兵器使用の使用を排除しない」と強硬論(1966)
5 NHK広島中央放送局跡地で幟町国民学校が授業開始(1945),流川教会の谷本牧師がサンフランシスコで『ノーモア・ヒロシマズ』活動開始(1948),広島こども博覧会開催(1950),原水爆禁止署名運動全国協議会の署名1201万8742人に(1954),山口県内で初の被爆者集団検診が山口市の原爆被爆者福祉会館ゆだ苑で行われ約100人参加(1969),ポーランド『連帯』のワレサ委員長がノーベル平和賞受賞(1983)
6 相生橋(T字橋)開通(1934)
7 核戦争防止国際医師会議開幕(1989)
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9 ネール・インド首相広島来訪(1957),北朝鮮が初の地下核実験成功と発表(2006)
10 『平和をきずく児童生徒の会』の総会が幟町中学校で開かれ『原爆の子の像』の制作者に東京芸大教授菊池氏を決める(1956),第18回オリンピック東京開幕(1964),広島バスセンタービル完成(1974),哲学者サルトル氏と作家ボーボワール女史来広原爆ドーム保存へ寄せ書きを残す「日本に存在するただ一つのものであるこの廃墟は、まことに、あの殺りくが、決して2度と起こらないために、みんなが生き、かつ戦うわれわれ意志のあかしである」(サルトル氏)/「あの戦争の恐怖の象徴である、上空から狙われたこのドームは、われわれに、あらゆる力を傾けて平和のために戦う決意を迫る」(ボーボワール女史)(1966),レーガン米大統領に広島訪問を訴える広島市民グループの意見 広告が米紙ワシントン・ポストに載る。米市民に大きな反響(1983),IPPNW広島大会に参加したソ連チェルノブイリ原発事故の消防士と英被曝退役軍人協会長の2人が放射線影響研究所で血液検査(1989)
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12 本川小で第2回世界仏教徒会議広島大会(1952),ワールド・フレンドシップ・センターが被爆孤老施設開設(1965),厚生省と広島・長崎両市が今後1年間に76人の在韓被爆者の渡日治療受け入れを決定(1982),大衆演劇『愛と死の傷痕・伸ちゃんの三輪車』完成(1991)
13 ヘレンケラー11年ぶりに来広(1948),広島平和文化センター発足(1967)
14 アメリカ戦略爆撃調査団、広島で調査開始(1945)
15 臨時帝国議会を広島に召集(1894),広島東洋カープ/セントラルリーグ初優勝(1975)
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17 アイラ・モリス夫妻から広島市長に手紙「生活に困っている広島の被爆者のため、ヨーロッパ各地で募金活動を開始した。年末には送金」(1961),米政府はソ連に50メガトンの水爆実験を中止するよう呼び掛ける声明を発表(1961),原爆の犠牲となった国民義勇隊(市町村・職場・学校)、学徒隊の約7800人が靖国神社へ合祭(1963),広島市アウシュビッツに象徴される悲惨な戦争体験を二度と繰り返さないようにと『広島・アウシュビッツ委員会』発足(1963),中国初の原爆実験成功(1964),放射線影響研究所西本願寺広島別院で、病理解剖被爆者らの追悼法要。19回目。2年間、232人の霊を慰める(1976),原水禁国民会議が広島での検診に招待していた中国人被爆者、山東工業大副教授 董永増さんが心臓病で死亡。旧広島高等師範学校(現広島大)留学中に被爆(1985),米疾病対策センターが、ワシントン州ハンフォード原子力施設周辺住民2万人の被曝調査をひそかに開始。NBCテレビなどが「1949年12月、同施設から放射性ヨウ素を含んだ煙が放出され住民がソ連チェルノブイリ原発事故の10倍の放射線に被曝」と報道(1988)
18 ヘレン・ケラー女史が如己堂を訪れる(1948長崎),タイル壁画『平和のキャラバン-月』づくりの募金が広島市内で始まる。市民が購入するタイル片で壁画を制作。科学万博会場から広島市に贈られた『平和のキャラバン-太陽』とセット(1985)
19 ノーマン・カズンズ氏が浜井広島市長に広島戦災児育成所の子ども達を米に養子として迎えたいが法的に不可能なので『精神養子運動』を進めたい趣旨の手紙を送る(1949),日ソ共同宣言(1956),被爆死した移動演劇『さくら隊』を悼む『さくら隊原爆忌』が東京・目黒の羅漢寺の原爆殉難之碑前で営まれる(1975),ニューヨーク株式市場で株価大暴落・ブラックマンデー(1987)
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23 広島市姉妹・友好都市の日/重慶市(中国)
24 世界大恐慌(1929),国際連合発足(1945),インドの国際法学者ラダ・ビノッド・パール博士から広島市民にあてたメッセージが浜井広島市長に届く。「広島、長崎の被爆という受難は、不幸にもその後の人類の歴史を変える力になっていない。両市民は人類の将来に責任の一端を担う新たな努力を今こそしてほしい」(1966),前田正男科学技術庁長官が青森市で、原子力船「むつ」について、「実験船だから故障は当然。わずかの放射線漏れで大騒ぎするのはおかしい」と発言(1976),科学技術庁が韓国による日本海への核廃棄物投棄に関する調査結果を発表「1968年から72年までの5年間、水深2200メートルの韓国領海内に、低レベル放射性廃棄物を詰めた200リットルドラムかん115本を 投棄。環境汚染の心配はない」(1980),米下院エネルギー保存小委員会が「1940年代半ばから70年代初めにかけ、米政府が受刑者や病人などに放射能の人体実験をした」と発表。米エネルギー省の記録から調査。実験数は31回に上り、計695人に 放射性物質を注射や投与。マギー同小委員会委員長がヘリントン・エネルギー長官に実験対象者の追跡調査を求める(1986),四国霊場八十八番礼所で結願寺の香川県長尾町の大窪寺に福岡県八女郡星野村の『原爆の火』を永久保存へ。原爆の火・平和塔の建立式(1988),ビキニ水爆実験による第五福竜丸被曝事件後、米政府が機密保持を理由に日本側科学者の「死の灰」の研究発表に検閲を要求したり、「死の灰」管理にクレームをつけるなど日本政府に再三圧力をかけていたことが、外務省発表の外交文書で判明、補償交渉は27億円要求に対し7億円で決着したことも明らかに(1991)
25 佐々木禎子さんの命日(1955),私立安田女子高の新聞部が文化祭で、日本の歴史教科書の「原爆記述」調査結果を発表。1949年からの文部省検定済み日本史、世界史の教科書160冊を調査。原爆投下日や被害状況、犠牲者数など詳しい説明は14冊のみ。投下期日なし40冊、投下国なし49冊(1975)
26 英国防相、クリスマス島での核実験予定を発表。威力はTNT火薬100万トン級(1954),韓国の被爆者を日本に招いて治療しようと『被爆者救援日韓協議会』結成(1968),『水爆開発の父』エドワード博士がワシントンで「広島への原爆投下は誤りだった」と語る(1982),ゴルバチョフソ連共産党書記長が1990年末までに核ミサイル搭載潜水艦6隻とこれに積載する核弾頭を一方的に廃棄と言明。『北欧非核地帯化構想への第一歩』(1989)
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28 『平和の時計塔』(1967),広島市原爆資料館周辺を石畳に化粧直し始める(1988)
29 原爆死没者の遺骨発掘作業、似島で開始(1971)
30 『平和の塔』除幕式(1974)
31 ABCCの呉研究所が呉共済病院隣接地に完成(1948),広島市の人口30万435人(1951),ソ連の宇宙飛行士テレシコワ、ニコラエフ夫妻が来広。原爆病院慰問、原爆慰霊碑参拝(1965),天皇、皇后が訪米後の記者会見、広島への原爆投下について「遺憾には思うが、戦争中のことであり、広島市民には気の毒に思うがやむを得なかった」。天皇は戦争防止への強い願いを述べられながらも、戦争責任については「そういう問題には答えかねます」(1975),中国の人民日報(31日付)が「原子力潜水艦動力装置の製造技術を既にマスターし、核兵器を装備した部隊を所有」と、原潜所有を示唆(1985),米スリーマイル島原発事故で炉心の45%が溶融。原子力国際会議で判明(1988),22年ぶりに2回目の原 爆ドーム保存工事開始(1989),広島市の原爆慰霊碑前に「海外旅行にと思ってためていたものです」と45万円現金(1990)
 
 
 
出典:図録ヒロシマを世界に/広島平和記念資料館
    年表ヒロシマ核時代50年の記録/中国新聞社(1945年~1994年)