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広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?《12月》

 

1 広島駅ビル開業(1965)

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3 東西冷戦の終結(1989)

4 広島市児童図書館新築開館、アメリカ・カリフォルニア州の広島県人会からの建設資金で建設(1952)

5 正田篠枝、歌集『さんげ』を自費出版。一般に頒布しないとの条件で広島刑務所で印刷、ひそかに市民に配布された(1947),木村俊夫官房長官が記者会見で沖縄早期返還の前提として①自主防衛力の整備➁日米安保体制の堅持➂米核抑止力についての国民的合意‐を挙げ、「日本の防衛力は自力による核開発か米の核の傘に入るかの二者択一しかなく、核兵器を持たないのが政府の方針である以上、米の核抑止に頼ることが現実的と認識」と言明(1967),中国紙の工人日報が1969年に中国西北部の原爆製造工場で大規模放射能汚染があったと明かす(1983),広島市の旅館「新亀万」にあったヒロシマ修学旅行の感想文を集めた「坂本文子記念文庫」を同旅館閉鎖のため近くの旅館「あいおい」へ移す(1990)

6 原爆ドーム厳島神社世界遺産に決定(1996)

7 昭和天皇陛下来広「犠牲を無駄にすることなく平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」(1947),参院法務委で池田蔵相が「貧乏人は麦を食え」発言で野党騒然(1950),東京地裁の裁判長が8年ぶりに判決を出した〈原爆訴訟〉で「原子爆弾の投下は無防備都市に対する無差別攻撃で国際法上違法である。しかし、損害賠償請求権は国際法上も国内法上も個人にない」(1963),元中国新聞写真部員の松重美人氏らが『原爆写真フィルムを永久保存する会』結成へと訴える(1977),人間国宝香取正彦氏(1987年11月19日死去)の長男忠彦氏が広島市に300万円寄付「父は広島市に贈った鐘がきっかけで、本格的に平和の鐘を造り始めた。現在、世界に150個近くある。平和を願った父の遺志として、永遠に鳴り続けてほしい」(1988),原爆ドーム世界遺産登録記念碑(1996)

8 真珠湾攻撃マレー半島上陸、太平洋戦争始まる(1941),広島赤十字病院職員慰霊碑(1959),平和記念資料館「平和データベース」が被爆資料を取り込みインターネット上で閲覧可能となる(1999)

9 被爆者援護法成立(1994)

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12 米ギャラップ世論調査が発表、朝鮮の休戦会談が失敗の場合、朝鮮での原爆使用に「賛成」41%、「反対」37%(1951),通産省が「将来の電力需要とにらみ合わせた原子力発電の問題点」をまとめる。「10年後に火力、15年後に水力の開発が限界に突き当たり原子力発電は10年を待たないで必要となる。ここ2、3年の間にパイロット工場が建設されなければならない」(1955),広島市の河村病院の河村虎太郎氏が2人目の韓国人被爆者を治療のため受け入れ。李鐘郁さん。被爆当時、陸軍の高射砲手で8月5日に大阪から広島入り(1973),広島市原爆資料館に眠る被爆者資料を反戦・平和をテーマにした2展示施設に永久貸与決める。横浜市創価学会戸田平和記念館と京都市の日本歴史資料館(1979)

13 南京虐殺(1937中国)

14 「原爆被害者の会」第1回総会(1952),ソ連が日本の国連加盟案に拒否権行使(1955:オーストリア、ハンガリーの加盟は承認),朝鮮民主主義人民共和国帰国記念時計設置(1959),1972年度芸術祭の優秀賞テレビドキュメンタリー部門で広島テレビの原爆シリーズ9作目『きょうも空は晴れているか―原爆裁判』が7年連続受賞(1972),米がネバダ州で地下核実験(1979),旧広島文理科大の南方特別留学生の1人マレーシアのアブドル・ラザクさんが38年ぶりに広島訪問し広島大学原爆犠牲者追悼の碑に参拝(1983)

15 米スミソニアン博物館でのエノラ・ゲイ完全復元展示に対して原爆被害の説明を加えるよう被爆者が抗議(2003)

16 初の政府主導海外原爆展〈パキスタンイスラマバード〉が開催(1998)

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18 国際連合へ80ヵ国目として加盟(1956),日・韓国交正常化(1965),広島市公務員慰霊碑(1965)

19 広島県佐伯郡五日市町広島市戦災児育成所が開設10周年祝う(1955),国鉄宇品線の旅客営業一部廃止に伴う「宇品線サヨナラ記念式」(1966),島根県衛生公害研究所が雨や大気中の降下物から平常値の36~210倍の放射能を検出。中国大気圏核実験の影響とみられる(1978),日本被団協が1986年の結成30周年記念事業として計画した「被爆者の森」用地が広島市平和大通り東詰めに決まる(1987)

20 ノルウェー核研究所ランデルス所長が「政府の命令があれば、ノルウェーの科学者は適当期間内に原子爆弾を造ることができよう」と放送で言明(1959)

21 長田新広島大教授が12月21日号の「週刊サンケイ」誌上で日本人の手による精神養子運動を提唱(1952),モンゴル人民共和国ウランバートル平和委員会から日本アジア連帯委員会に「広島の原爆孤児のために」2500ドルが届く、同国で丸木位里・俊夫妻が開いた『原爆の図』展をきっかけに寄金集め(1956),広島女学院高校の生徒でつくる「ともしび会」が広島市内の原爆被災者36世帯に米のキリスト教被爆者福祉センターの粉ミルク、メリケン粉などを贈る(1959),演劇『サダコは生きる』の上映を見たオランダの子供たちが、広島「折鶴の会」にグラジオラスの球根6000個、バラの苗木800本をプレゼント、と外務省から連絡(1963),在韓被爆者援護実施のため韓国政府が初の被爆者実態調査を開始(1990),ソ連の11共和国がカザフ共和国の首都アルマトイでの首脳会議で『独立国家共同体』創設に調印し69年間のソ連の歴史にピリオド、核兵器管理は戦略核保有の4共和国の核ボタンを1つにする中央管理で合意(1991)

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24 浦上天主堂の「アンジェラスの鐘」の一つが壊れないまま見つかったクリスマス・イブのこの夜、鐘を復活させ鳴らした(1945長崎)

25 長崎市立永井図書館開館<現・長崎市永井隆記念館>(1952長崎)

26 「市民が描いた原爆の絵」が平和記念資料館で特別保存される(1978),米の元大統領(第33代)ハリー・トルーマン氏死去(88歳)。広島、長崎への原爆投下を決定。大統領を辞めた後も「あの決定は正しかった」と語り続ける(1972),天皇の原爆投下発言に抗議声明を出した広島県原水禁(森滝市郎代表委員)に宇佐美毅宮内庁長官から天皇発言を補足する回答。「原爆投下を肯定する意味合いのご発言ではない。ご自身としてはそれを止めることが出来なかったことを遺憾に思われて、『やむを得なかった』のお言葉になったと思う。第二次大戦の犠牲となった人々、今なお原爆の災禍に苦しむ広島、長崎両市民に心を砕かれておられる両陛下のご真情を理解してほしい」(1975),厚生省が「軍需充足会社」の広島電鉄で働いていて被爆死しながら公務死扱いされていなかった67人の救済を決める(1977),世界平和を願って16年間、つるを折り続けている東京の関ツルさんから広島原爆病院に寄せられた千羽づるが100万羽を突破。20万円相当の医療器具も併せて贈る(1978)

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28 米・英・仏・中の報道関係者10人が広島視察「マニラ、南京より早く日本の復興を願うのは虫がよすぎる」等の意見も(1945),金沢市で小学校教諭の山河隆さんが呼びかけた被爆者救護運動が反響、地元の北国新聞も協力し善意の募金が続く(1965),平和記念資料館入場者数112万9529人と前年より約8万2000人増加、外国人は2万8373人(1972),高橋昭博さんが右手人さし指の「黒いつめ」を提供、つめが抜けたのは8回目で6回目のつめは1968年に寄贈(1972),元広島電鉄家政女学校の被爆死生徒10人の公務死が認められ遺族に遺族給与金証書(1976),米がネバダ州で地下核実験(1976),被爆米兵(ラルフ・J・ニール少尉とノーマン・R・ブリセット通信員)の世話をした元憲兵の福井信一さんが名乗り「ニール少尉は日本人軍医から『お前の国の爆弾でけがをした、治療法を知っているだろう』と問い詰められ『知らない、申し訳ない』と泣いて謝っていた」(1977),大手町と加古町を結ぶ万代橋の架け替え工事が終わり新橋の開通式、欄干の影が焼き付いていた旧橋は姿を消す(1981)

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31 NHKが日本劇場で「紅白歌合戦」を初の公開放送(1953)

 

出典:図録ヒロシマを世界に/広島平和記念資料館
    年表ヒロシマ核時代50年の記録/中国新聞