2
3 済州島四・三事件(1948韓国)
4 広島市戦災児育成所の原爆孤児の少年僧2人が龍谷大学に合格、特別奨学生に(1953),日本血液学会で被爆者の血液像所見をめぐり日米の学者が対立、米側の「年月とともに健康人と大きな差がなくなっている」という報告に対し、日本側は「末梢血液に変化がなくても骨髄に異常があり、白血病の発生率は下がっていない」と反論(1957),映画「渚にて」(スタンリー・クレイマー監督)が広島上映(1960),沖縄在住の被爆者に被爆者健康手帳交付へ(1967),米の黒人運動指導者キング牧師がメンフィスで撃たれ死亡、各地で黒人の抗議運動起きる(1968),原爆孤児の施設「似島学園」の卒園生らが創設者で初代園長の森芳麿氏の胸像を作り除幕式、1971年までに同学園を巣立った子どもは約1300人(1971),被爆者援護法の制定を求めて2つの広島県被団協が分裂後初めての統一決起集会。「被爆援護法がもう一歩で実現できる段階。大切な時に被爆者が一丸となって行動がとれ、今後の反核運動にも道を開く」と原水禁国民会議の森滝市郎理事長(1977),原爆乙女の渡米治療などに半生を捧げた広島流川教会の前牧師谷本清さんに、母校の米エモリー大から功績を称える感謝状(1982),原爆ドーム設計者ヤン・レツル氏のめいエミリアナ・ヘイズラロウバさんがドーム保存と世界平和を願って広島「折鶴の会」に便り(1989),「クリントン米政権が『北朝鮮がほぼ間違いなく少数の核兵器保有に成功しつつある』と認め、保有数拡大阻止に方針転換」と米誌タイムが報道。また、北朝鮮外務省がIAEAの再査察受け入れを求める国連安保理の議長声明採択を強く非難し、拒否の声明発表(1994)
5 オバマ米大統領がプラハで演説し「原爆投下国の道義的責任」として「核兵器のない世界に向けた具体的な措置を取る」と宣言(2009)
6
7 第二総軍司令部を広島市に設置(1945)
8 「原爆の子の像」建設のための街頭募金運動始まる(1956)
9
10 原爆ドーム保存工事起工式(1967),韓国人原爆犠牲者慰霊碑(1970),瀬戸大橋開通(1988)
11 戦後初の外国人民間観光団(オーストラリア/20人)が広島市を訪問(1949),トルーマン米大統領がマッカーサー元帥を解任(1951),第一回「広島まつり」始まる(1952),長崎市議会から広島市議会に贈られたソテツを平和記念公園に植樹(1953),琉球立法院が原水爆基地化反対を決議。米は沖縄での原水爆基地建設を中止し一切の核兵器を持ち込まないよう要請(1958),米の「平和のための国際的婦人ストライキ運動」の婦人らがケネディ大統領に面会して大気圏核実験中止を要請するためホワイトハウス前で24時間スト(1962),米海軍作戦部長が原潜スレッシャーが129人を乗せボストン沖で失われたと発表(1963),香取正彦氏制作の「平和の鐘」が広島市に到着(1964),ニクソン元副大統領が広島市訪問(1964),広島の原爆資料館の外国人公式訪問者数が1983年度初めて100人を突破し118人/73年度6人/77年度33人/78年度50人/79年度96人(1984),広島・長崎両市長が5月の東京サミットで核廃絶提案と各国首脳の被爆地訪問を実現するよう安倍晋太郎外相に要望書(1986),紙屋町地下街シャレオ開業(2001)
12 袋町小学校平和資料館が開館(2002)
13
14
15 毛利輝元が広島城築城の鍬始めを行い、五ヶ村を広島と命名(1589),日本ペンクラブ「広島の会」広島市で開幕、平和宣言を発表(1950)
16 広島県、天皇の広島大本営滞在を記念し、4月27日・9月15日を学校記念日とする(1896)
17 日清講和条約調印(1895)
18
19 四・一九革命〈サイルグ〉(1960韓国)
20
21
22
23 サッカーJリーグ、サンフレッチェ広島球団設立(1992),呉市に大和ミュージアム開館(2005)
24
25
26 ソ連チェルノブイリ原子力発電所で炉心溶融事故発生(1986),湾岸戦争で海上自衛隊初の海外派遣、呉市から掃海部隊がペルシャ湾へ(1990)
27 明治天皇、広島を出発し大本営が広島から京都へ移される(1895)
28
29 瀬戸内しまなみ海道全線開通(2006)
30
4月:大本営跡前庭に噴水地「桜の池」を設置(1898)
※出典:図録 広島平和記念資料館 ヒロシマを世界に/広島平和記念資料館
年表 ヒロシマ核時代50年の記録/中国新聞社