広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?《7月》

 

 

1 ビキニ核実験(1946),平和記念公園内に国際会議場オープン(1989)

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4 ビキニ調査船俊こつ丸が東京帰港、海水の最高7000カウント(1954),南アフリカが米との濃縮ウラン供給交渉が決裂と発表。「供給を絶たれても独自に濃縮ウランを生産し予定通り核開発を進める」(1979),松山市竜仙院で「おこり地蔵を語りつぐ子供の会」が結成(1982),広島YMCAの玄関にある旧済美国民学校の碑の横に、峠三吉氏の詩「墓標」を彫った銅板(1984),広島市が原爆供養塔に安置された遺骨のうち名前の分かる914柱の納骨名簿を全国の自治体へ郵送。10回目。全国1486カ所公共施設などで一斉に張り出し遺族らの連絡を待つ(1994)

5 広島市政100周年と広島城築城400年記念式挙行(1989),平和記念資料館本館が戦後の建築物としては初めての国の重要文化財に指定される(2006),萩反射炉など「明治日本の産業革命遺産」が世界文化遺産登録決定(2015)

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7 盧溝橋事件・日中戦争始まる(1937)

8 広島市で「海と島の博覧会・ひろしま」開幕(1989)

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10 広島市姉妹・友好都市の日:モントリオール市(カナダ)

11 米政府原子力委員会のシールズ・ウォーレン医学部長が議会で広島・長崎の原子爆弾の効果について発表「現在までのところ原爆の放射能にさらされた人々の被病率が高まっているということはないし、爆発の永続的な作用もみられない」(1949),放浪の画家山下清氏が原爆慰霊碑と原爆ドームを写生(1956),広島市議会が原爆ドーム保存決定(1966),広島東署の倉庫から見つかった「戦災死亡者イロハ名簿」で肉親の名前確認相次ぐ(1973),南アフリカ原子力委員会のアルベルツ副委員長が「必要とあらば原爆を造ることができる」と発言(1974),爆心地から2.6キロで被爆した被爆者が2キロで線引きは納得できないと原爆症認定却下で国に不服申し立て(1981),長崎原爆投下機の爆撃手カーミット・ビーハン氏から長崎市に届いた謝罪訪問の意向に対し、市が招待を断る返書郵送。氏の後悔と苦悩に理解を示す一方、「会いたくない」との被爆者の声も。招待拒否に抗議も(1985),広島大名誉教授の森滝市郎さん(原水禁国民会議代表委員)の日記を基にした「ヒロシマ40年ー森滝日記の証言」(中国新聞社編)が平凡社から出版(1985),英BBC放送がエジプト、イスラエル両国が1973年10月の第4次中東戦争の際、互いに核兵器を配備し核戦争一歩手前。と報じる(1985),1970年代、ソ連ウラン鉱山で受刑者が高濃度のラドン、放射性ガスにさらされて働く様子を撮影した英のドキュメント映画「核収容所」がロンドンで公開(1986)

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16 米、ニューメキシコ州アラモゴードで世界初の原爆実験/トリニティ実験(1945)

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18 米陸軍省招待のマイルス・ボーンUP通信社東洋方面副部長らが広島市を視察、「原爆1号」と呼ばれた広島赤十字病院で入院中の吉川清氏が訴え「私は研究材料となり渡米して米の科学者の実験台に上りたい、世界永久平和のために役立つことができるなら死んでも問題ではない」(1947),米海軍岩国基地のF4Bファントム戦闘爆撃機が岐阜県美濃加茂市の山林に空対空ミサイル1個を誤って落とす。同基地は「核装備はしていない」(1969),広島市の原爆被災復元委員会が「爆心から2キロ以内にあった30町のうち85%の戸別地図が復元できたが15%の786世帯は不明」と中間報告(1970),二階堂進官房長官が記者会見でABCCの財政負担について「出来得る限り折半に努力」と表明。1972年度のABCC予算は米側16億3600万円、日本側7400万円(1973),東京電力福島第1原子力発電所2号機が運転開始。日本の商業用原発の営業は7基、約306万キロワットと米英に次ぐ第3位の原発国に(1974),文部省が日本被団協との交渉で新中学校学習指導要領原案で削除されていた核問題の記述を復活させると回答。初等中等教育局は「被爆者の気持ちや立場は十分に分かるし、平和教育の後退と心配する声もあるので省内で検討した結果復活させる(1977),木島等長崎市長ソ連の核実験に対し、抗議文を持って東京・麻布台のソ連大使館に出向く。大使館側は受け取り拒否(1979),広島、長崎のジャーナリストやケースワーカーらが「原爆孤老」発刊(1980),核燃料サイクル3施設の立地を青森県六ケ所村に決定(1984)

19 原爆投下直後に記された伝言が壁面に残っていることが判明した市立袋町小学校の部分保存工事が始まる(2000)

20 韓国人原爆犠牲者慰霊碑を平和記念公園内に移設(1999)

21 広島芸北地方で集中豪雨、14名死亡(1988),東京上野東照宮境内「広島・長崎の火」モニュメント完成(1990)

22 原爆死没者慰霊碑の碑文決定/文案・執筆は広島大学教授雑賀忠義(1952),広島市民球場完成(1957),第55回パグウォッシュ世界大会(2005/7/22~7/27:広島)

23 原爆死没者慰霊碑の改装工事始まる/翌1985年3月26日完成し除幕式(1984)

24 模擬原爆パンプキン爆弾が全国49カ所で投下され多数の死傷者を出す。この日はその内9カ所での被災(1945/7/20~8/14),県知事、8月6日に全県民が黙とうするよう呼びかける(1964)

25 日清戦争開戦(1894)

26 模擬原爆パンプキン爆弾が全国49カ所で投下され多数の死傷者を出す。この日はその内10カ所での被災(1945),ポツダム宣言、日本の無条件降伏を要求(1945)

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28 第一次世界大戦始まる(1914)

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30 原爆被爆者療養研究センター「神田山荘」開所(1973)

31 縮景園の被爆者遺骨の発掘開始/8月6日平和記念公園の納骨堂に安置(1987)

 

7月中:①市、爆心地の慈仙寺鼻に戦災供養礼拝堂を建設(1946)

➁長崎原爆で死亡したオランダ兵捕虜6人の名前が分かり原爆殉難者名簿に追加(1979)

 

※出展:図録 ヒロシマを世界に/広島平和記念資料館

年表 ヒロシマ<核時代50年の記録>/中国新聞