戦後の旧日本銀行広島支店にて長年警備員をされた難波康博氏の講演会のまとめ

平成29年8月28日

講師:難波康博

演題:日本銀行および原爆当日前後の吉川支店長の活躍、社員の努力

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【はじめに】

・難波氏は被爆者ではなく当日は岡山に疎開(小1)。

・幼少の頃、当時流行っていたピカドン遊び(ピカドンごっこ)をしていたら

サーベルを持っていた軍人さんに「ピカドン」という言葉を使うな!と怒られた。

・その後、おじが経営していた銀行(現トマト銀行)に就職したが

同じ銀行マンとして原爆から復興した旧日銀広島支店に興味を持つようになった。

いっそのこと日銀に就職すれば原爆の情報を得られると思い転職も考えたが、日銀は中途採用は採らず

中で働く医師や掃除のおばさん等も全て日銀 の社員で入り込む余地が無かった。

日銀のガードは固く、中への調査ですら当時のGHQや番組制作のためのNHKくらいしか入れなかった。

ところが平成4年に旧日銀広島支店が銀行業務を終えてイベント会場になる情報を知り

被爆の事をもっと知りたい目的で全日警の系列会社で警備員の資格を取り頑張って警備員に採用された。

家族には警備員になる事を随分反対されたが押し切った。息子さんは市大の教授。
・著作「消えた伝統の音/日本銀行広島支店編」「街が消えた日/広島財務局編」

【吉川支店長の着任】

1945年6月に広島支店に着任。

当時理事の役職にいた吉川支店長は本来大阪か東京へ赴任すべき立場だったが

たまたま広島支店への着任となった。その理由は今現在も不明。

【空襲対策】

・戦前に広島からは多数の移民が米、ブラジル等にいるので空襲が無いと噂されていたが

吉川支店長はその考えに異論を唱え着任早々に空襲対策に着手した。

特に度重なる宇部の大空襲(7月29日のパンプキン爆弾による大きな被害等)に危機感を感じていた。

・建物の天窓に盛土をした。(参考資料一)

・当時国鉄のお金等余剰金をできるだけ地下の金庫に集めた。

・延焼対策に隣接していた木造建ての三和銀行を8月5日に更地にしたばかりだった。

当時、銀行は建物疎開の対象外施設だったが、空襲により打撃を受けると軍部にお金が回せなくなると

説得し三和銀行の建物疎開にこぎ着けた。(吉川支店長の日記に「強制疎開」との記有)

【8月8日からの営業】

・支払い窓口を12(現在も偶然12)設けたが4、5日経っても両替するだけの人しか来なかった。

しかしそのお金がとても臭く石鹸やクレゾールで洗ったが臭いが取れなかった。あまりに臭くて

応援部隊の一部帰った者もいた。(参考資料二)

・吉川支店長による理事の役職故の決断で、サインと母印だけで500円以内まで払い戻しを決行した。

後に各銀行の通帳と付け合わせたところ嘘を言った人はいなかった。

(阪神・淡路大震災での太陽神戸銀行東日本大震災でのJA銀行でも同様)

・3階財務局の伊達局長は8月6日は県北へ出張していて無事だったが日銀へ戻って来た。

宇和島藩主で侯爵の爵位を持つ伊達局長は軍部に顔が 利いた為、憲兵を呼んで建物の出入り口警護や

食料の調達等を手伝わせた。「(食料貯蔵庫の)蔵を破れ!」

・8月4日から15日までの「総勘定元締め帳」は空白

【難波氏が日銀関係者を取材して聞いて来られたお話】

被爆後、赤ちゃんを抱いたお母さんが日銀に来て一晩中その赤ちゃんに水をかけて泣き叫んでいた。

どう見てもその赤ちゃんは炭化していて生きているとは思えなかった。

そして翌朝そのお母さんは赤ちゃんを抱いたまま日銀の二階から飛び降りた。

それを見ていた女学生は止めることも出来ずただ見守ることしか出来なかった。

(死んだ方が良いと思った)

しかしそのお母さんが抱 いていたのは赤ちゃんではなく黒焦げになった枕だった。

・吉島刑務所の看守さんから伝えて欲しいこと。

被爆当日、比較的爆心地から離れた吉島刑務所も被害を受け建物も破壊され多くの囚人が逃げ出した。

入れ替わりに今度は多くの被災者が助けを求めて建物内に入ってきた。

その内、逃げ出した囚人が刑務所に戻ってきて今度は被災者を看護し始めた。決して外に出ようとはしなかった。

それでも数名脱走者もいたが刑務所のトップが敢えて追わせなかった。

彼らはこれからの広島の復興に役立つからとの理由で。