平和学習資料①【平和記念公園≪碑めぐり≫クイズ】公開中!

 ≪Hiroaki のガイド実績等≫
外務省職員新人研修の平和記念公園ガイド担当、国会土曜会研修の平和記念公園ガイド担当、観光事業者向け広島平和記念資料館平和記念公園ガイド担当、ヒロシマピースボランティア(広島平和記念資料館専属オフィシャルガイド)新人研修の広島平和記念資料館平和記念公園ガイド担当、他、学校等も含む公的機関からの『平和記念公園の見学要点ポイントについての講演会』の御依頼。昭文社まっぷる『広島・宮島』誌上取材等。
 
≪注意事項≫
下記のクイズなどの著作権はHiroakiにあります。学校関係者、または教育に携わる公的機関以外への使用許可は出しておりませんので御注意下さい。尚、学校関係者、教育に携わる公的機関の皆様方へは、子ども達への平和教育使用に限り使用許可を出しますので、学校名または公的機関の部署名、責任担当者氏名、責任者直通の学校または部署の電話番号を明記して、連絡先メールアドレスへ「平和記念公園クイズ使用許可願い」と題して御送信ください。
メールを確認次第、使用許可の返信メールをお送りします。当然、クイズ等の使用に関して一切の費用等は発生しません。ヒロシマの原爆に関する、私個人のボランティア活動の一環とお考えください。
Hiroaki 宛連絡メールアドレス:  amana_eruwa@yahoo.co.jp
 
 
● 【平和記念公園≪碑めぐり≫クイズ】のクイズ出題場所、※他留意点等
(1)広島平和記念資料館本館、スグ前。(広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)へと続く公園側)
(2)広島平和都市記念碑、正面の階段下。
(3)広島平和都市記念碑、階段上の正面横にずれた場所。
(4)平和の灯、横。※他のお客様の通行を妨げない。
(5)原爆の子の像へ渡る横断歩道手前で、右にレストハウス(第二の被爆建造物)が見える場所。
※横断歩道は左右安全に注意して皆で同時に手早く渡る。
(6)原爆の子の像、正面。※シーズン中のセレモニーは手短に、順番待ちの他グループにも配慮して。
(7)原爆ドーム(第一の被爆建造物)の対岸、で後方に平和の鐘が見える場所。
(8)平和の鐘、へ登る階段下の横。
※平和の鐘を打つ時は、小さな音になるよう加減して各グループ毎で一回、優しく打つ。
次のグループは鐘の残響音が無くなってから打つ。
他のグループや、お客様に配慮して写真撮影やガイド解説など手短にして打ち終わったら手早く降りてくる。
平和の鐘の周りの池に落ちないように注意する。
(9)平和の時計塔、車道側寄り。
(10)原爆供養塔、正面横。
(11)韓国人原爆犠牲者慰霊碑、正面横。
(12)被爆した墓石(慈仙寺の墓石/第三の被爆建造物)、石階段で墓石の所まで降りる。
(13)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、B1フロア。(地下1階)
(14)峠三吉詩碑、正面横。
(15)被爆したアオギリ、裏側。(広島平和記念資料館東館側では無い方)
 
※尚、『爆心地(島病院)』や動員学徒関連碑の『原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑』、
『広島二中原爆慰霊碑』、『広島市立高女原爆慰霊碑』、『被爆動員学徒慰霊慈母観音像』等の
見学は交通量の多い横断歩道を渡りますので、ボランティアガイドは広島市からの通達により、
学校からよほどの要望がない限りご案内しておりません。
碑めぐりされます場合、必ず先生方が学校側の御責任の下、子ども達の安全を確認して引率されることを御願い致します。
 
 
●【クイズ】、ヒント、答え、解説、 一覧
 
【クイズ(1)】
遠くに見える原爆ドーム、(4)、(2)が一直線上に並んで建っている事は見た目通りです。
(1)から見ると原爆ドームが(2)よりも上に飛び出て見えますが、今から(2)まで歩いて行くと原爆ドームの見え方が変わって見えるようになります。
今から歩く道にある秘密があるため、そのように見えるのだそうです。その秘密とは一体何でしょう?
ヒント:
(1)から(2)まで歩いた後で、左右に見える芝生の植え込みの石垣のたて幅が(2)側から(1)側に向かって段々短くなっている事。
答え:
(下り)坂になっている。
解説:
当時広島市民の間では、原爆ドームを見るたびに原爆の辛さを思い出すので早く立て壊せという意見が多かった中で、(0)を設計した大阪府出身の建築家である丹下健三さんは反対に、原爆ドームを残すことが未来に渡り、原爆の悲惨さや戦争の愚かさを訴え続けるために必要な事と考え、(2)の中に遠くの原爆ドームが入って見えるような仕組みで(0)を設計しました。
 
【クイズ(2)】
2016年5月にアメリカの偉い人が(0)に来ました。一体誰が来たでしょう?
ヒント:
現職のアメリカの大統領が(0)に来たのは初めての事で、広島市民の多くは大変喜びました。
答え:
オバマ大統領。
解説:
オバマ大統領から寄贈された折り鶴二羽が、広島平和記念資料館東館1階に展示してあります。
 
【クイズ(3)ー①】
慰霊碑の下部に設置してある石室の中には一体何が入っているでしょう?
ヒント:
遺品、遺骨、折り鶴、水、お花、ではありません。
当初は遺骨を入れる計画でしたが、公園を造る法律により禁止されたので代わりとなるものを入れました。
答え:
原爆が原因で亡くなった方々の名簿。
解説:
2019年8月6日現在で118冊の名簿に319,186人の名前が奉納されています。原爆手帳を持っていて現在も生存されている方々は約14万人いらしゃいます。
その方々が亡くなると自動的に(3)に名簿として奉納されますが、名簿が入り切るように石室の下は約1メートルの地下収納になっています。
【クイズ(3)ー②】
118冊の名簿の中で、1冊だけは何も書かれていない名簿が入っています。それはなぜでしょう?
ヒント:
原爆手帳を持っていて今後、亡くなっていかれる方々のための名簿は、別に用意されています。
答え:
名前も住所も分からない身元不明者のため。
解説:
原爆で亡くなった方々の多くは身元不明者です。名前、住所を書き記したくてもそれが出来ないため何も書かれていない名簿が1冊奉納されています。
 
【クイズ(4)ー①】
今後、世界である事が達成されると一旦、灯が消される約束で現在燃えています。一体何が達成されると灯が消されるでしょうか?
ヒント:
一日も早く灯が消される事が望まれます。
答え:
核兵器廃絶。
解説:
現在、どんな大雨や台風が来ても簡単には灯が消えない構造で出来ています。上下の雨、風にはビクともしない仕組みで、仮に消えたとしても広島平和記念資料館東館に保存された種火が燃え続けています。
【クイズ(4)ー②】
(4)の中の火に、原爆の残り火は入っているでしょうか?
ヒント:
勘でどうぞ。
答え:
入っていません。
解説:
(4)の中の灯は全国から寄せられた工業の火、宗教の火などで原爆の残り火は入っていませんが、(0)内では広島瓦斯株式会社原爆犠牲者追憶之碑
原爆投下後の残り火を遺族がその方の故郷の福岡県星野村に形見として持ち帰り、燃やし続けておられた火から分火され灯されています。
 
【クイズ(5)に入る前の説明】
レストハウスは現在残っている中で爆心地から二番目に近い被爆建造物です。一番近い場所で残っている被爆建造物は原爆ドームです。
当時、爆心地から半径500メートル以内は即死ゾーンと言われた中、レストハウスは爆心地から170メートルの近い距離にあり、原爆が投下された朝8時15分、地上階の会社で働いていた40歳代のおじさんが偶然、地下室にあった会社の書類を保管する倉庫に書類を取りに降りてきていて、そのおじさん一人だけが結果的に生き残りました。地上階で働いていた他の30数名は全滅しました。
おじさんはその後、放射線の影響を受けるとなり易いと言われているガンにもならず80歳過ぎまで生きられました。
【クイズ(5)ー①】
将来かりに、核戦争など放射線の影響を受ける状況になったとします。
放射線の悪影響を出来るだけ減らすことだけを考えた場合、逃げ込む部屋はどちらが良いでしょう?
A:分厚い鉄で造られた部屋
B:分厚い鉄筋コンクリートで造られた部屋
ヒント:
40歳代のおじさんが生き残った地下室はどんな場所だったでしょう?
答え:
B。
解説:
放射線は鉄の固まりは簡単に通過して人の体に悪影響を与えますが、鉄筋コンクリートは通過しない特徴があります。なので鉄筋コンクリートで造られた地下室に居た40歳代のおじさんは、鉄筋コンクリート放射線を防いでくれたため、その後ガンにもならずに助かったのではないかと言われています。しかし実際は放射線だけの被害とは限りません。火災などが起これば地下室へ逃げ込むのは反対に危険かもしれません。状況に応じて正しく判断して安全な場所へ逃げることが大切です。
他に放射線が通過しない物質に水があります。
その例として、当時爆心地近くは多くの会社や銀行が集まったオフィス街でした。広島市内は現在も当時も路面電車が走っていて、原爆が落とされた8月6日は月曜日だった事もあり、原爆投下の朝8時15分頃は路面電車は通勤のお客さんで満員でした。
路面電車の中央つり革につかまっていた満員の大人たちをはさんで、原爆投下された側とは反対の座席に座っていた女学生が、ただ一人助かりました。人間の約70%は水分で出来ています。中央つり革につかまっていた多くの大人たちの水分が放射線を吸収して、その女学生が助かったのではないかと、広島で長年、被爆者に寄り添い「近距離被爆生存者に関する総合医学的研究」に取り組まれておられる広島大学名誉教授の鎌田七男医師の研究発表がありました。
【クイズ(5)ー②】
放射線は子どもと大人とではどちらに悪影響があるでしょうか?
ヒント:
佐々木禎子さんは2歳の時に爆心地から約1600メートル離れた自宅で被爆しましたが、その時見た目のケガなどが無かったにもかかわらず、その10年後12歳の時に突然血液のガンである急性白血病でこの世を去りました。それに対して地下室で生き残ったおじさんは何歳代の時に被爆しましたか?
答え:
子ども。
解説:
放射線は大人よりも、これから背たけなどが大きくなっていく成長期の子ども達に悪影響を与え、ガンになり易くする性質があります。ガンになると平均して寿命が短くなる傾向があるので、例えば佐々木禎子さんは病気になってわずか8ヶ月後に亡くなりました。
爆心地近くの広島の場合では被爆後、子どもは大人よりも3倍以上の割合でガンになり、また女の子は男の子よりも2倍以上の割合でガンになった。という数字上の報告もあります。(2014年6月2日(月)中国新聞朝刊「近距離被爆生存者78人の現況」より算出)
 
 
【クイズ(6)】
(5)で説明したように大人以上に子どもたちに悪影響を与えた放射線によって多くの子ども達が、原爆投下後9年、10年たってガンや急性白血病などで突然亡くなっていきました。その子ども達全員を慰めるために佐々木禎子さんの死をきっかけとして、その同級生たちが、募金活動などを行い(6)を建てました。後ろに並ぶ折り鶴は全国世界から年間一千万羽以上、重さにして10トン以上送られてきますが送られて来た折り鶴はその後、一体どうなるでしょう?
ヒント:
以前はそうするための機械が開発されておらず、泣く泣く焼却処分していました。
答え:
再生利用(リサイクル)されています。
解説:
現在ではリサイクルする機械が高度になって、ノート、付箋、名刺、Tシャツ、広島市立の小・中学校で送られる卒業証書などに利用されています。Tシャツへ再生利用出来るようにしたのは大阪の会社が初めてでした。
 
 
【クイズ(7)ー①】
対岸に見える原爆ドームは人間に例えると、かなりのお爺さんです。
2020年現在、5年前にあるピッタリの年齢を迎えられて、今年はその(ピッタリ+5)歳です。さて何歳でしょう?
ヒント:
今年は被爆75年です。という事は、原爆ドームさんはそれよりも前に生まれています。
答え:
105歳。
解説:
戦時中は広島県産業奨励館と言って、広島県の物産などを展示、販売する広島県が経営していた地産池消を目的とした、今でいうデパートでした。当時そのような建物が各都道府県に一つずつありました。(二つある地域もあった。)
また、映画上映や美術品展示もあり、お役所の事務所などもあったので公共の建物の役割もしていました。夜は期間限定でライトアップされ、その明かりが目の前の元安川に映えて、とても美しく広島市民自慢の建物でした。
105-75=30なのでちょうど、30歳の時に原爆ドームさんは被爆しました。今残っている被爆建造物の中で爆心地から一番近い距離160メートルの距離にあり当時、周辺で働いていた50数名の人たちは全員亡くなりました。このとき原爆を投下した爆撃機エノラ・ゲイの機長も偶然同じ30歳でした。
【クイズ(7)ー②】
現在の原爆ドーム世界遺産に登録されていて、周りが黒い柵で囲まれ中に入ることができません。
なので直接原爆ドームを触ることは出来ないはずですが、実は一ヶ所だけ今も実際に触って座れる、当時広島県産業奨励館の中にあった被爆したあるモノが(7)から見えます。それは一体どこにあるでしょう?
ヒント:
川岸の原爆ドーム正面辺りです。座れる、という事は?
答え:
(7)から見て川の水面からのびる階段を上がるとすぐ右に石で出来た長いベンチが見えます。
さらにその右隣に直方体の石のかたまりが横たわっています。その場所です。
解説:
この直方体の石のかたまりは被爆門柱と言って、当時広島県産業奨励館の前にあった門の柱が原爆で吹き飛ばされ、現在もそのままの状態で横たわっています。近くにその案内板が無いため多くの人は気付かず普通のベンチと思って座っています。
広島の地元の中国新聞社、ヒロシマ平和メディアセンターのH.P.に被爆門柱の記事が載っています。
平和記念公園に来る機会があれば皆さんも是非、実際に触って座ってみてください。平和記念公園のガイドさん達は、「直接触って座れる世界遺産」と勝手に呼んでいます。
【クイズ(7)ー③】
原爆ドームの右側に背の低い青いビルが、他のビルとビルの間に挟まれて見えますが、この青いビルは
75年前も現在も島病院と呼ばれる病院で爆心地になります。上空600メートルの高さで原爆が爆発しました。
この時の原爆の表面温度は太陽の表面温度約5000度よりも高いでしょうか?低いでしょうか?
ヒント:
原爆の爆発した瞬間の中心温度は数百万度にもなったそうです。
答え:
高い。
解説:
原爆の表面温度は時間の経過とともに変化していきますが、一番高い温度のときは約7700度にもなりました。(広島平和記念資料館による)
(7)の場所は爆心地から約200メートルの位置にあり地表温度は約3000度から約4000度でした。鉄の溶ける温度は約1500度です。
一方、現在の(0)は当時は公園ではなく多くの人々が住む街でもあり繁華街でした。原爆が投下された当時、家の外に居た人たちは爆風で吹き飛ばされるか、一瞬で炭化して男女の区別も出来ない状態で亡くなり(1946年の米戦略爆撃調査団報告書より)、家の中に居た人が助かったとしても外は3000度を超える熱さです。さらに、原爆が投下された8月6日の朝8時15分頃は満潮の時刻にあたり、3メートル近くあった川の深さにもかかわらず、多くの人たちは目の前の川へ次々飛び込み、そのまま亡くなりました。川一面に遺体が埋まった様子を表す証言に基づく原爆の絵が資料館に所蔵されています。
 
【クイズ(8)】
鐘の表面には世界地図が描かれいていますが、今後の世界平和を願ってわざとあるモノが描かれていません。
一体何が描かれていないでしょう?
ヒント:
特定の国ではありません。世界地図帳には普通描かれていますが、それを取り除くことによって、世界が一つにつながって世界中の人たちが
仲良く暮らせる平和な世の中を願っているのだそうです。漢字で二文字。
答え:
国境。
解説:
国と国を隔てる境界線を取り除くことによって皆が仲良く手をつないで、戦争のない世の中になると良いですね。
ただし、別々の国が同じ陸続きに住む外国の人たちの中には、海に囲まれ他国と隔たっている場所に住む日本人の考え方と違って、必ずしも
国境が無くなる事で平和な世の中になると思えない。という深刻な現実と向き合わざる得ない考えを持つ人も多くいます。外国の方々の立場や考え方を尊重することが大切です。
 
【クイズ(9)ー①】
はだしのゲン』という原爆を描いたマンガがあります。そのマンガの舞台となった小学校が(9)から見えます。一体どこにあるでしょう?
ヒント:
小学校の名前が校舎に書かれていて(9)から見えます。
答え:
原爆ドームとは反対方向に「本川小学校」と書かれている場所。
解説:
75年前も今も小学校として使われていて、マンガの作者もこの小学校を卒業しました。現在は本川小学校平和資料館が中にあります。
【クイズ(9)ー②】
当時、爆心地から半径500メートル以内は即死ゾーンと言われた中、本川小学校の校庭は爆心地から500メートル以内だったでしょうか?
それとも500メートルよりも離れていたでしょうか?
ヒント:
当時8月6日は夏休みでもなく月曜日だったので約200名の子どもは朝8時15分にはすでに登校していましたが、結局生き残ったのは女の先生一人と6年生の女の子一人だけでした。
答え:
500メート以内(約410メートル)
解説:
生き残った当時6年生の女の子は本当であれば、学童疎開により広島市内の親元を離れて田舎で他の子ども達と共に生活するはずでしたが、御家族の考えにより親元で一緒に生活していました。しかし爆心地から近い距離で被爆したにもかかわらず生き残る事が出来ました。何種類のガンとも戦いながらその後、80歳近くまで生きられました。
 
【クイズ(10)】
裏側にまわると入り口があって中は部屋になっています。中には一体何が入っているでしょう?
ヒント:
ここは(3)と比べて説明する所です。(3)には原爆で亡くなった方々の名簿が入っていました。
答え:
原爆で亡くなった引き取り手のいない方々の遺骨。
解説:
原爆で亡くなった人の遺骨の内、爆心地に近すぎて家族全員が亡くなり遺骨の引き取り手のない遺骨が814人ぶん。広島市内全域で亡くなった身元不明者の遺骨が約7万人ぶん。奉納されています。
原爆投下後、一週間以内に亡くなった人は約7万人。さらにその年の12月までに亡くなった人が約7万人。
当時広島市民約35万人の内、原爆により合計約14万人がその年のうちに亡くなりました。
 
【クイズ(11)】
碑を正面から見たとき、右側横の上段部分の手前に尹道(ユン・ビョンド)さんという人の名前が書かれています。実はこの人が(11)建立の提案者でした。この人はお父さんで当時広島県産業奨励館に勤務していた息子さんを原爆で亡くしました。
息子さんの名前は伊原徳遠さんと言い、今も原爆ドーム横にある内務省中国・四国土木出張所職員殉職碑にその名前が書かれています。同じ親子でありながら、お父さんの名字と息子さんの名字が違うのは一体なぜでしょう?
ヒント:
太平洋戦争が始まる2年前に、朝鮮半島の人たちを日本人として扱うため名前を日本人風に変える「創氏改名(そうしかいめい)」という制度が出来ました。
答え:
創氏改名」によって朝鮮での本来の名字である、尹(ユン)をその漢字に一部分が似ていて日本人風の名字に近い伊原(イハラ)に変えたから。
解説:
息子さんである伊原徳遠さんの本来の名前は尹徳遠(ユン・トククォン)さんと言います。お父さんの尹道(ユンビョンド)さんは、息子さんが在命中ならまだしも、原爆で亡くなった後も内務省中国・四国土木出張所職員殉職碑に日本人風の名前として記されることを大変嘆きました。
せめて死後は本来の名前で祀られ安らかに眠って欲しいと考え、同じ思いを持つ在日韓国人のため(11)の建立を提案しました。
また(11)には当時、公族として招かれ日本陸軍第二総軍の教育参謀中佐の職務中に被爆死した李公殿下も祀ってあります。(11)は韓国の石で造られ船で広島に運ばれました。碑の台のキフと呼ばれる亀の形をした神様は朝鮮半島に向かって建立されています。
 
【«外国人被爆者の探し方»】
(13)へ行きます。
B1フロア『体験記閲覧室』に入り収蔵資料検索装置を使って、□別紙資料A□(※)を参考に調べてみてください。アメリカ人、韓国人、中国人、ドイツ人などの被爆者を探すことが出来ます。
 
【クイズ(12)、(13)】
「地」と書かれている墓石が(0)の他の地面よりも低い位置に建っているのは一体なぜでしょう?
ヒント①:
爆風など原爆の直接の影響ではありません。また自然災害などの影響でもありません。
ヒント②:
(13)へ行きます。
B1フロア受付の右斜めに当時の(0)の実物の地層が展示してあります。この地層の被爆面に注意して、そこよりも現在の地表面に近い上側の約70年分の土の厚みと、被爆面よりも下側の江戸時代までの約300年分の土の厚みがほぼ同じ長さになっているのはなぜでしょう?
答え:
戦争が終わってこの辺りの街全体に土を盛り上げ、(0)の地面の位置が高くなるようにしたから。
解説:
墓石はもともと低い位置に建っていたわけではありません。
当時、現在見えているぐらいの墓石の下側の位置がこの辺りの街のもとの地面の高さでした。戦争が終わって(0)全体をわざと1メートル近く土を盛り上げたため、現在の墓石がまるで低い位置に建っているかのように見えているだけなのです。
なぜ1メートル近くも土を盛り上げたかというと(0)は当時は多くの人が住む街であり繁華街でした。
原爆後、放射線の恐ろしさを当時の医師をはじめ広島市民は誰も知りませんでした。特に爆心地近くに住んでいた人の中で生き残った人たちは他の場所へ行っても、以前からそこに住んでいる他の生き残った人が既に住んでいたため、爆心地近くに住むしかありませんでした。
しかし爆心地近くは原爆によりガレキの山なので家を建てることが出来ません。そこで家を建てられるように地面を平らにする目的でガレキが見えなくなるまで(0)全体に1メートル近くの土を盛り上げました。
原爆後の人為的な盛り土のために(13)の地層の被爆面よりも上側の土の厚みと被爆面よりも下側の江戸時代までの厚みがほぼ同じになりました。
(0)が出来た後も(0)内は多くの人が多くの家を建てて住んでいました。なので現在の(0)は地下を掘り起こすと当時のガレキが出てくる場所であり、いまだに拾われきれていない遺骨が眠る場所です。皆さんが碑めぐりをしていた(0)は一つの大きなお墓だったのです。
 
【クイズ(14)】
大阪府出身で広島で被爆した原爆詩人の峠三吉さんが現在も称えられているのは一体なぜ?
ヒント:
戦争が終わって約7年間はG.H.Qが日本を占領していて、日本の新聞社などは『原爆』、『慰霊』などの言葉を使うことを禁止されていました。
答え:
峠三吉さんは平和のためにG.H.Qの弾圧にも屈せず『原爆詩集』を発表するなど勇敢な行動をしたから。
解説:
「ちちをかえせ ははをかえせ ・・・」で始まる碑文は『原爆詩集』の始めの部分で、その後は原爆の悲惨な状況を詳細に描写した詩へと続きます。この詩集は、峠三吉さんが原爆投下後、実際に自分の足で救護所などを知人を探し歩き回ったときの体験が記されていて皆さんにも読んでもらいたいと思います。
尚、被爆50年の節目に大阪府豊中市岡町図書館前庭に同じ詩の書かれた峠三吉顕彰詩碑が建てられました。
 
【クイズ(15)】
このアオギリは12歳の時に被爆しました。先に裏側を見てください。次に表側を見てください。
さて、被爆した方は表側と裏側、一体どちら?
ヒント:
このアオギリはこの場所で被爆したのではありません。
答え:
表側。(広島平和記念資料館東館側)
解説:
(0)から北へ約1キロメートル離れた場所で現在の広島平和記念資料館東館側を向いている面を被爆しました。被爆面は木が裂けていたり大きなくるぶしのようになっています。
三本立っている内の比較的細くて途中から枝分かれしている、少し青みがかったアオギリは隣の二本アオギリの子どもアオギリ二世と言います。
被爆樹木に関するお話はたくさんありますが、(12)の解説に書いたように当時広島市民は放射線の恐ろしさを全く知りませんでした。ところが、周りの人たちは髪の毛が抜けたり血を吐いたりして今まで見たこともない症状で次々と亡くなっていきます。
はたして、このまま爆心地近くに住み続けて良いものか誰もが分からなかったとき、ある人が大根の種を植えてみよう。と言いました。もし、大根の花が咲いたなら植物が生きていけるのだから人間もきっと生きていけるに違いないと考えたのです。大根の花が咲いたとき、市民は生きる希望を与えられた気がして皆が大変喜んだそうです。当時の広島市民にとって木や花が再び芽を出し咲くことが、この広島の地で生きていける確信へと繋がったのでした。
皆さんもこれからの将来、核兵器や戦争などとは関係なく木や花は人の心を勇気付けてくれる存在なので大切にしていきましょうね。また、それらの身の回りのひとつひとつを大切にする気持ちを持つことが、実は平和への第一歩なのかもしれませんね。これはあくまでガイドさんの個人的な考えです。
 
以上でクイズは終わりです。
 
【«外国人被爆者の探し方»】
(13)へ行きます。
B1フロア『体験記閲覧室』に入り収蔵資料検索装置を使って、□別紙資料A□(※)を参考に調べてみてください。アメリカ人、韓国人、中国人、ドイツ人などの被爆者を探すことが出来ます。
 
□別紙資料A□
 
             ~ 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 ~
 
 
  «B1フロア『体験記閲覧室』の収蔵資料検索装置による外国人被爆者の探し方»
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
画面にふれてください
    ↓
言語を選んでください
 にほんご(こども)
    ↓
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①«アメリカ兵12人の探し方»
                         【入力】     
まとめて → 学校や会社の → 学校や会社の → あめりか → なくなった人の →
さがす    名前でさがす   名前でさがす   【タッチ】    じょうほう 12
                                                           (一番上を)      
 
②«韓国・中国・ドイツ人の探し方»
                        
まとめて  →  名前でさがす  →  いう → 【決定】  → 李   →                   
さがす                        【タッチ】  
           
               → ろがくぶん     → 〈続きの操作は上と同じ〉
               → じょりつでん    → 〈上と同じ〉
               → ようきおん     → 〈上と同じ〉
               → らっさーるふーご → 〈上と同じ〉     → (世界平和記念聖堂の神父)         
 
 
③«別の探し方» 
                                                  
げんばくを  →   ビデオを見る →  キーワードでさがす →   外国に住んでいる     →     
受けた人の話                      げんばくを受けた人の思い 
    
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
④«2020年2月1日現在登録アリ»
・南方特別留学生
アブドゥル・ラザク(後のマレーシア大学教授)
・米兵捕虜
ルーパー、ライアン、ニール、ブリセット他
・他
平山郁夫、濱井信三、粟屋仙吉、島薫、佐々木禎子、大下靖子(「夏服の少女」)
中沢啓治(「はだしのゲン」の作者)、峠三吉、四国直登、丸木位里丸木俊
⑤«2020年2月1日現在登録ナシ»
・南方特別留学生
ペンギラン・ユソフ(後のブルネイ王国首相)、ハッサン・ラハヤ(後のインドネシア枢密院議員)、
ハリム・アブバカール(後のフィリピン神戸総領事)
・ロシア人
セルゲイ・バルチコフ(広島女学院の音楽の先生/被爆バイオリン)
ポール・ボルゼンスキー
内務省勤務中に産業奨励館で被爆し、韓国人原爆犠牲者慰霊碑建立のきっかけとなった
尹徳遠(ユン・トククォン)/創氏改名後(1939年~)は伊原徳遠さん。
お父さんは韓国人原爆犠牲者慰霊碑正面の右側面、上段手前に書かれていて、建立提案者
でもあった尹道(ユン・ビョンド)さん
・他

【他】
◎米軍爆撃機が約150度の急旋回をして原爆の爆風と放射能から退避訓練をする為1945720日~814日の間30都市49ヶ所へ模擬原子爆弾が投下され全国で多くの死傷者が出た。
近畿地方の被害(奈良は記載なし):〔場所/死者/負傷者〕
〔大阪/10/85〕〔京都/97/100~〕〔兵庫/8/不明〕〔滋賀/14/250〕〔和歌山/不明〕〔三重/4/60
大阪市東住吉区(地下鉄谷町線田辺駅)の田辺小学校外側北西に模擬原子爆弾投下跡地之碑があり、726日に『7.26田辺の模擬原爆追悼のつどい』が行われる。
参考:「パンプキン!模擬原爆の夏」 令丈ヒロ子著作
※以前は滋賀県平和祈念館に模擬原子爆弾の模型が展示されていた。
 
 
◎中国人被爆者関連
【2018年10月20日(土)西区民文化センターでの講演会後に Hiroaki が栗栖薫氏に直接お聞きした話】
第二中隊(安野?)の中国人約100人に対して村人は約50人の小規模な集落であり又
終戦後はアメリカ人が村に来て皆、殺されると思っていた世相だった。
そんな中で特に栗栖さん宅は西松の下請けの組が入っていたので、常時中国人がうろちょろしていて怖かった。(栗栖氏の表現による)
村の人達は毎日何かしら物を盗られていたが黙っていた。一回だけ中国人の大きな暴動が起きた。
池の鯉を盗られて怒ったある村人が中国人を棒で殴ったところ、その後集団で詰め寄られた。戦後の警察は機能していない状態なので日本人が中国人へ手出しすることができないため村人は棒で殴った日本人を蔵に閉じ込めて、事件そのものを隠した。
 
●広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会の川原氏によれば
安野の中国人強制連行者360人に対し、朝鮮人強制連行者は約800人だったが
中国人の方は国が管理していたため記録文書が残っていたので調査によりある程度判明したが、朝鮮人の方は警察が管理していたため記録文書が残っておらず現在も詳細不明。
●当時、日本は中国に宣戦布告をしていないため正式に捕虜はいない建前であり
一日五円で中国から日本へ働きに行くという名目で書類上偽造工作されていたため
中国人強制連行者という概念は曖昧だった。
そのため1998年に中国人原告5人が西松建設広島地裁に提訴し、2002年敗訴、2004年広島高裁で逆転勝訴、を経て2007年最高裁で原告側の逆転敗訴に収まったが、このとき異例の「付言」がつき西松建設と国に和解を勧め2009年原告との和解が成立した。
2017年まで8年間、西松安野友好基金はさまざまな和解事業を展開した。
 
◎現代の核関連
【沖縄近海における米国の水爆水没事故に関する質問に対する答弁書
第114回国会(通常)、答弁書第十九号
内閣参質一一四第一九号、平成元年六月十六日
● 1965年12月5日、沖縄近海の公海上で米空母タイコンデロガから1個の核兵器を搭載したA-4航空機が海中に滑り落ち、パイロット及び核兵器とともに水深一万六千フィート以上の海底に沈んだ。現在(2020年)も未だ未回収のままである。(参議院H.P.より)
 
【現代世界の核兵器事情】
別紙『現代核兵器事情Q&A』参照。