広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?《1月》

 

 

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4 ビキニ補償問題が解決{内訳;第五福竜丸関係1億2000万円・マグロ廃棄1億8000万円・危険区域航行1億2500万円・マグロ値下がり3億4000万円}しかし関係者等は「要求額の三分の一」と不満(1955),中国新聞が世界各国の「核戦力の現状」をまとめ1964年12月現在の核実験総数は米333回・ソ連126回・英24回・仏5回・中国1回(1965)、1975年度予算案の大蔵省原案内示でABCCから日米共同運営になる放射線影響研究所の設立に13億8400万円全額認められる(1975),安倍晋太郎外相が1985年度外務省予算で南米在住日本人被爆者検診のため巡回医師団派遣を表明(1985),全面的な核実験禁止を求める国際集会が米ラスベガスで始まる。環境保護団体グリーンピースや米の反核団体が主催し20カ国1500人が参加(1991),プルトニウム輸送船あかつき丸の入港に抗議し広島の脱原発グループが原爆ドーム前で座り込み(1993)

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6 広島折鶴の会が原爆ドーム保存にと市長に募金や署名簿を提出(1965),朝鮮民主主義人民共和国が核実験(2016)

7 佐々木禎子生誕(1943)

8 広島市復興局設置(1946)

9 第五軍管広島鎮台設置(1873)

10 ABCCの研究所、広島市比治山に完成(1951)

11 ノーマン・カズンズ氏から精神養子への第1回送金2000ドルが広島市役所へ届く(1950),米がソ連の中部太平洋におけるミサイル実験には抗議しないと発表。藤山愛一郎外相は「ソ連に注意を喚起したい」(1960),千葉県の匿名女性が「夏珠子の童謡」という自作の童話集2冊を原爆病院に送る(1964),共産党系の広島県原水協が全国規模の原爆小頭症児を守る会を結成(1966),公演のために訪れた米のジャズピアニスト、オスカー・ピーターソン夫妻が広島駅で精神養子の6歳の女児と初対面(1966),広島・長崎の被爆で防空活動中に殉職・負傷した警防団員に対し1969年度中に国の弔慰金、見舞金支給(1969),被爆者救援日韓協議会が広島原爆病院に入院中の韓国人被爆者女性の入院費募金の街頭カンパやビラ配布を決める(1969),内閣放射能対策本部が日本上空の高空浮遊じんから平常時の100倍の放射能を検出したと発表。中国核実験の影響とみられる(1972),第2期ニクソン政権のウイリアム国防次官が「パリ和平交渉が決裂した場合は北ベトナム核兵器を限定的に使用する可能性を否定しない」と証言(1973),中国新聞で小久保均・岩崎清一郎・大牟田稔氏らによる連載「広島文芸の日々3人による戦後史」が始まる(1978)、「10フィート運動原爆写真巡回展」が広島市役所などで始まる(1982),アルゼンチン原子力委員会のカルロス委員長が「アルゼンチン、ブラジルは3年以内に原爆製造が可能」と語る(1982),広島市内の女性3人(澤田さん・今村さん・山本さん)が被爆死した子どもの遺品5点を資料館に寄贈「形見にしまっておいたが、私たちも年を取った」(1983),海上自衛隊の対潜哨戒機が沖縄北西450キロの海上で救難艦に曳航されるソ連原子力潜水艦を発見(1986),チェルノブイリ原子力発電所事故の被曝者治療のためソ連原発事故医療・治療研究調査団が来日。13日から16日まで広島大原医研、放影研、広島原爆病院などで専門家と意見交換(1987),米復員軍人省が前身である復員軍人局が放射性物質を使い大規模な医学人体実験を行っていたことを示す資料を公表。実験台にされた米カリフォルニア州在住の黒人男性が米エネルギー省を相手取り1000万ドルの損害賠償を求めサンフランシスコ連邦地裁に提訴。放射線人体実験の対象者は当初推定の800人をはるかに超え数千人の可能性も(1994)

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13 広島市原爆障害者治療対策協議会発足(1953)

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15 広島カープ〈現広島東洋カープ〉が球団結成披露式(1950)

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17 初の韓国人原爆慰霊祭、150人が出席(1968),多国籍軍イラクに対して空爆開始、湾岸戦争始まる(1991),阪神・淡路大震災(1995)

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22 中国軍管区司令部を広島市に設置(1945)

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26 住友銀行広島支店玄関先の『人影の石』の移設工事開始、後に平和記念資料館に展示(1971)

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※ 昭和38年豪雪(1963)

広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?《12月》

 

1 広島駅ビル開業(1965)

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3 東西冷戦の終結(1989)

4 広島市児童図書館新築開館、アメリカ・カリフォルニア州の広島県人会からの建設資金で建設(1952)

5 正田篠枝、歌集『さんげ』を自費出版。一般に頒布しないとの条件で広島刑務所で印刷、ひそかに市民に配布された(1947),木村俊夫官房長官が記者会見で沖縄早期返還の前提として①自主防衛力の整備➁日米安保体制の堅持➂米核抑止力についての国民的合意‐を挙げ、「日本の防衛力は自力による核開発か米の核の傘に入るかの二者択一しかなく、核兵器を持たないのが政府の方針である以上、米の核抑止に頼ることが現実的と認識」と言明(1967),中国紙の工人日報が1969年に中国西北部の原爆製造工場で大規模放射能汚染があったと明かす(1983),広島市の旅館「新亀万」にあったヒロシマ修学旅行の感想文を集めた「坂本文子記念文庫」を同旅館閉鎖のため近くの旅館「あいおい」へ移す(1990)

6 原爆ドーム厳島神社世界遺産に決定(1996)

7 昭和天皇陛下来広「犠牲を無駄にすることなく平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」(1947),参院法務委で池田蔵相が「貧乏人は麦を食え」発言で野党騒然(1950),東京地裁の裁判長が8年ぶりに判決を出した〈原爆訴訟〉で「原子爆弾の投下は無防備都市に対する無差別攻撃で国際法上違法である。しかし、損害賠償請求権は国際法上も国内法上も個人にない」(1963),元中国新聞写真部員の松重美人氏らが『原爆写真フィルムを永久保存する会』結成へと訴える(1977),人間国宝香取正彦氏(1987年11月19日死去)の長男忠彦氏が広島市に300万円寄付「父は広島市に贈った鐘がきっかけで、本格的に平和の鐘を造り始めた。現在、世界に150個近くある。平和を願った父の遺志として、永遠に鳴り続けてほしい」(1988),原爆ドーム世界遺産登録記念碑(1996)

8 真珠湾攻撃マレー半島上陸、太平洋戦争始まる(1941),広島赤十字病院職員慰霊碑(1959),平和記念資料館「平和データベース」が被爆資料を取り込みインターネット上で閲覧可能となる(1999)

9 被爆者援護法成立(1994)

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12 米ギャラップ世論調査が発表、朝鮮の休戦会談が失敗の場合、朝鮮での原爆使用に「賛成」41%、「反対」37%(1951),通産省が「将来の電力需要とにらみ合わせた原子力発電の問題点」をまとめる。「10年後に火力、15年後に水力の開発が限界に突き当たり原子力発電は10年を待たないで必要となる。ここ2、3年の間にパイロット工場が建設されなければならない」(1955),広島市の河村病院の河村虎太郎氏が2人目の韓国人被爆者を治療のため受け入れ。李鐘郁さん。被爆当時、陸軍の高射砲手で8月5日に大阪から広島入り(1973),広島市原爆資料館に眠る被爆者資料を反戦・平和をテーマにした2展示施設に永久貸与決める。横浜市創価学会戸田平和記念館と京都市の日本歴史資料館(1979)

13 南京虐殺(1937中国)

14 「原爆被害者の会」第1回総会(1952),ソ連が日本の国連加盟案に拒否権行使(1955:オーストリア、ハンガリーの加盟は承認),朝鮮民主主義人民共和国帰国記念時計設置(1959),1972年度芸術祭の優秀賞テレビドキュメンタリー部門で広島テレビの原爆シリーズ9作目『きょうも空は晴れているか―原爆裁判』が7年連続受賞(1972),米がネバダ州で地下核実験(1979),旧広島文理科大の南方特別留学生の1人マレーシアのアブドル・ラザクさんが38年ぶりに広島訪問し広島大学原爆犠牲者追悼の碑に参拝(1983)

15 米スミソニアン博物館でのエノラ・ゲイ完全復元展示に対して原爆被害の説明を加えるよう被爆者が抗議(2003)

16 初の政府主導海外原爆展〈パキスタンイスラマバード〉が開催(1998)

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18 国際連合へ80ヵ国目として加盟(1956),日・韓国交正常化(1965),広島市公務員慰霊碑(1965)

19 広島県佐伯郡五日市町広島市戦災児育成所が開設10周年祝う(1955),国鉄宇品線の旅客営業一部廃止に伴う「宇品線サヨナラ記念式」(1966),島根県衛生公害研究所が雨や大気中の降下物から平常値の36~210倍の放射能を検出。中国大気圏核実験の影響とみられる(1978),日本被団協が1986年の結成30周年記念事業として計画した「被爆者の森」用地が広島市平和大通り東詰めに決まる(1987)

20 ノルウェー核研究所ランデルス所長が「政府の命令があれば、ノルウェーの科学者は適当期間内に原子爆弾を造ることができよう」と放送で言明(1959)

21 長田新広島大教授が12月21日号の「週刊サンケイ」誌上で日本人の手による精神養子運動を提唱(1952),モンゴル人民共和国ウランバートル平和委員会から日本アジア連帯委員会に「広島の原爆孤児のために」2500ドルが届く、同国で丸木位里・俊夫妻が開いた『原爆の図』展をきっかけに寄金集め(1956),広島女学院高校の生徒でつくる「ともしび会」が広島市内の原爆被災者36世帯に米のキリスト教被爆者福祉センターの粉ミルク、メリケン粉などを贈る(1959),演劇『サダコは生きる』の上映を見たオランダの子供たちが、広島「折鶴の会」にグラジオラスの球根6000個、バラの苗木800本をプレゼント、と外務省から連絡(1963),在韓被爆者援護実施のため韓国政府が初の被爆者実態調査を開始(1990),ソ連の11共和国がカザフ共和国の首都アルマトイでの首脳会議で『独立国家共同体』創設に調印し69年間のソ連の歴史にピリオド、核兵器管理は戦略核保有の4共和国の核ボタンを1つにする中央管理で合意(1991)

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24 浦上天主堂の「アンジェラスの鐘」の一つが壊れないまま見つかったクリスマス・イブのこの夜、鐘を復活させ鳴らした(1945長崎)

25 長崎市立永井図書館開館<現・長崎市永井隆記念館>(1952長崎)

26 「市民が描いた原爆の絵」が平和記念資料館で特別保存される(1978),米の元大統領(第33代)ハリー・トルーマン氏死去(88歳)。広島、長崎への原爆投下を決定。大統領を辞めた後も「あの決定は正しかった」と語り続ける(1972),天皇の原爆投下発言に抗議声明を出した広島県原水禁(森滝市郎代表委員)に宇佐美毅宮内庁長官から天皇発言を補足する回答。「原爆投下を肯定する意味合いのご発言ではない。ご自身としてはそれを止めることが出来なかったことを遺憾に思われて、『やむを得なかった』のお言葉になったと思う。第二次大戦の犠牲となった人々、今なお原爆の災禍に苦しむ広島、長崎両市民に心を砕かれておられる両陛下のご真情を理解してほしい」(1975),厚生省が「軍需充足会社」の広島電鉄で働いていて被爆死しながら公務死扱いされていなかった67人の救済を決める(1977),世界平和を願って16年間、つるを折り続けている東京の関ツルさんから広島原爆病院に寄せられた千羽づるが100万羽を突破。20万円相当の医療器具も併せて贈る(1978)

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28 米・英・仏・中の報道関係者10人が広島視察「マニラ、南京より早く日本の復興を願うのは虫がよすぎる」等の意見も(1945),金沢市で小学校教諭の山河隆さんが呼びかけた被爆者救護運動が反響、地元の北国新聞も協力し善意の募金が続く(1965),平和記念資料館入場者数112万9529人と前年より約8万2000人増加、外国人は2万8373人(1972),高橋昭博さんが右手人さし指の「黒いつめ」を提供、つめが抜けたのは8回目で6回目のつめは1968年に寄贈(1972),元広島電鉄家政女学校の被爆死生徒10人の公務死が認められ遺族に遺族給与金証書(1976),米がネバダ州で地下核実験(1976),被爆米兵(ラルフ・J・ニール少尉とノーマン・R・ブリセット通信員)の世話をした元憲兵の福井信一さんが名乗り「ニール少尉は日本人軍医から『お前の国の爆弾でけがをした、治療法を知っているだろう』と問い詰められ『知らない、申し訳ない』と泣いて謝っていた」(1977),大手町と加古町を結ぶ万代橋の架け替え工事が終わり新橋の開通式、欄干の影が焼き付いていた旧橋は姿を消す(1981)

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31 NHKが日本劇場で「紅白歌合戦」を初の公開放送(1953)

 

出典:図録ヒロシマを世界に/広島平和記念資料館
    年表ヒロシマ核時代50年の記録/中国新聞

個人的広島お好み焼きランキング

ランキングを付けるほどの食べ歩きはしておりませんが、最近お好み焼きの食べ歩きに目覚め始めたので、その個人的な記録程度に捉えて下されば幸いです。
動機は平和記念公園をご案内した県外からのお客様に、毎回のように広島のお好み焼き屋でおすすめのお店を聞かれますので、それならばとガイドブックやサイト情報に頼らず自分の味覚で確かめ少しでもお客様のお店選択の情報に役立てばと思いつきました。このランキングはあくまでも個人的な趣味ですが自分の味覚を頼りに遠慮なく甲乙付けさせて頂きます。
はるばる広島に訪れた県外からの旧友を労いもてなすとしたら、という気持ちで評価しております。評価基準は以下の通りで、基本となるオーダーは最もシンプルな「そば・肉・玉」お好み焼きで比較しています。
①お好み焼きの生地の美味さ
②そば(うどん)の美味さ
③ソース・具材との相性
④食べ応えに対する価格設定(コストパフォーマンス)
⑤その他コメント
 
検証したお店一覧
薬研堀八昌(やげんぼりはっしょう)、八昌、越田、よっちゃん、ふみちゃん、へんくつや(複数店)、みっちゃん(複数店)、麗ちゃん、あとむ、電光石火(複数店)、そぞ、日々来(複数店)、まる麺本店、花子、壱、三々賀、大昌、長田屋、あまんじゃく、若貴、本家村長の店、得、8989(ぱくぱく)、五エ門、とまと、田の久、徳川、一休さんカープ、胡桃屋、悟空、お好み屋、どん、ひなた、・・・
検証予定のお店一覧
ロペズ、おっこん商店、玉家、ホープ、善さん、修竜、てっぱん食堂、ひらの、こうさか、なかや、としのや、きゃべつ、Masaru、もり、・・・
 
暫定一位:壱(平和記念公園徒歩7分)①パリパリ風、生地だけでも美味しい②パリパリ風に相性の良いお好み焼き専用イソノ麺を生かした美味さ③甘さが売りのオタフクソースを改良しているがそれでも少し甘めか?オーダー時にソース薄めでと言えばOK④料理としての完成度に対し低価格の734円(税込)は良心的⑤最近人気が出てきたお店なので昼食時はかなり待たされる覚悟で
 
二位:そぞ(広島駅南口徒歩5分広島フルフォーカスビル6F)①ふわっと風、生地が薄いが全体としてうまみのある生地②麺は印象なし③レモンと牡蠣を使って独自開発した「結晶ソース」は甘さを押さえた旨味あるソース④トッピング無料の大根おろしが、ここのお好み焼きの良さを引き出しているが、分量が少なく価格設定は検証したお店の中で一番高く感じた830円(税込)⑤広島駅周辺のお勧め店ならば、価格は高いが料理の完成度から勧めても良いかもしれない。「結晶ソース」の早期全国販売化を願う
 
三位:悟空(広島YMCA近く八丁堀より徒歩5分)①生地の旨味は秀逸②ソフト麺使用?生地とマッチングして良い③オタフクソース。毎日食べる人にとっては甘過ぎるソースですが観光客の皆様には是非、この広島お好み焼きの原点であるオタフクソースの甘味を味わっていただきたい。広島お好み焼きのソースは甘くてナンぼです④やや小ぶりながらも美味しいので満足できる価格750円(税込)⑤大阪の粉モノ料理に対抗出来得るクオリティーと言って良い
 
 
四位以下≪順不同≫:花子(広島中央郵便局近く)①外パリパリ内ふわっと風、個人的にはどちらかに偏った方が好み②昔ながらのお好み焼き屋で使うフツーの麺③甘みを抑えたソースは特徴ナシ。使用している豚肉が通常の豚バラではなく、豚トロで美味しい④豚トロに経費を掛け過ぎて、あまりお店に儲けが出ない価格設定なのではと心配してしまう、国泰寺焼というオーダーで注文720円(税込?)⑤直向で謙虚な店長さんを応援したくなる

広島平和記念公園ガイド参考マップ≪国別・都道府県別・職種別・樹木別・他編≫

《医療関係》

 

「防空業務従事令書」により疎開を禁止され、広島市内での医療救護活動を義務付けられた

298名の医師を含む2370名の内2168名が被爆した。

広島市医師会原爆殉職碑「祈りの手」(1960/8/4)建立

 

 

 

《日赤関係》

 

8歳のときに広島市鉄砲町で被爆し、9年後の1955年に原爆病で倒れた千葉亮君を、引っ越し先で通っていた成城高校(東京)の学友等が救おうと、自主映画『無限の瞳』を制作。雑誌「高校時代」の<高校テアトル>の頁に掲載された自主映画の記事にJRC(青少年赤十字団)に所属していた愛知淑徳高等学校の生徒らが感銘し協力して、日赤愛知県支部を通し日赤広島県支部へ折り鶴五千羽を贈る。その内の一房を「原爆の子の像」設立のきっかけとなる佐々木禎子が受け取った経緯があった。映画タイトルは和歌山県の簑島高校から届いた文集から取られた。

 

 

《理容関係》

 

一、原爆供養塔付近に元広島理容学校があった。

 

二、原爆投下当日に撮られた松重美人さんの三枚目の写真に、被災した松重さん宅の理容店内の様子が写し出されている。

 

三、佐々木禎子さんの実家は理容店だった。

 

四、元安川l河畔緑地帯に広島市理容師会による「毛髪碑」建立(1960年3月)。

 

広島平和記念公園ガイド参考マップ≪国別・都道府県別・職種別・樹木別・言語編≫

(2016年11月現在)

広島平和記念資料館案内パンフレット(10か国語)

日本語・英語・中国語・ハングル語・フランス語・ドイツ語・イタリア語・ポルトガル語・ロシア語・スペイン語

 

広島平和記念資料館音声ガイド(300円,17か国語):日本語版のみ吉永小百合さんの朗読有

日本語・英語・中国語・ハングル語・フランス語・ドイツ語・イタリア語・ポルトガル語・ロシア語・スペイン語

タイ語・フィリピン語・インドネシア語ヒンディー語アラビア語・マレー語・ウルドゥー語

 

③情報資料室所蔵『はだしのゲン』<漫画>:中沢啓治作(25か国語)

日本語・英語・ハングル語・フランス語・ドイツ語・イタリア語・ポルトガル語・ロシア語・スペイン語タイ語・フィリピン語・インドネシア語

アラビア語トルコ語ペルシャ語・インド英語・オランダ語スウェーデン語・クロアチア語ウクライナ語・ポーランド語・フィンランド

シンハラ語・ブラジル語・エスペラント語

 

④情報資料室所蔵『はだしのゲン』<絵本>:中沢啓治作(4か国語)

日本語・英語・ラオス語・モンゴル語

 

情報資料室所蔵『おりづるの旅~さだこの祈りをのせて~』<絵本>:うみのしほ作・狩野富貴子絵(16か国語)

日本語・英語・中国語・中国語(台湾)・フランス語・ドイツ語・ロシア語・スペイン語タガログ語ビルマ語(ミャンマー)・クメール語(カンボジア)・ネパール語スウェーデン語・ハンガリー語・タジク語・ダリ語

 

情報資料室所蔵『夕凪の街 桜の国』<漫画>:こうの史代(8か国語)

日本語・英語・中国語・ハングル語・フランス語・イタリア語・ポルトガル語スペイン語

 

情報資料室所蔵『さだこと千羽づる』<絵本>:絵本を通して平和を考える会SHANTI(フェリス女学院大学学生有志)(3か国語)

日本語・英語・ハングル語

 

(2015/9/23現在)

 

 

 

 

《アジア》

 

<中国>

長春市(新京):動員学徒慰霊碑2校

大連市:動員学徒慰霊碑1校

重慶市:広島市の姉妹・友好都市

 

 

 

<韓国>

テグ広域市:広島市の姉妹・友好都市,韓国人原爆犠牲者慰霊碑の碑石が採掘、制作された

 

 

<モンゴル>

1979年5月に発表された歌「ヒロシマの少女の折り鶴」は現在も歌い継がれている。モンゴル語の題目は「ヒロシミン・オヒニー・ツァースン・ショウォー」

 

 

《アメリカ》

ニューヨーク:国際連合本部に日本国際連合協会から寄贈(1954/6)された【日本の平和の鐘】は毎年2回春分の日国際平和デー(9/21)を祝し鳴らされる。世界60ヵ国から集められた貨幣・コインで鋳造されている。

シアトル:佐々木禎子の像

ニューメキシコ州:「原爆の子の像」の姉妹像(1995/7)

オークランド市:オークランド市出身の「世界平和デー委員会」活動家アルフレッド・W・パーカー氏が各国に呼びかけて広島市に寄せられた寄付によりウメ、カキなどの果樹が植えられる。(1953)

ハワイ:ハワイ公園委員会ジョージ・佐々木氏より400本のキョウチクトウが贈られる。(1961)

 

 

《カナダ》

第1回パグウォッシュ会議(1957)

 

 

《オランダ》《カナダ》《アメリカ》

国際平和庭園:「平和の時計塔」南側緑地帯

国際間の友好関係を促進する目的で1991年にアメリカ・ワシントンDCに設置された国際平和庭園基金が毎年世界平和に貢献した都市を指名してプレートやチューリップの球根を寄贈している。2001年4月に指名された広島市ではそれ以降毎年チューリップの球根を植えつけている。

アメリカ(1991)→ポーランド→ドイツ→ハンガリー→フランス→スロベニア南アフリカモザンビークコスタリカ→オランダ→日本(2001)→オーストリア→イタリア→ギリシャキプロスアイルランド→スイス→ウクライナ→トルコ→ボスニアヘルツェゴビナ→・・・

国際平和庭園の起源は1940年ナチスドイツの侵略から逃れてイギリス、当時イギリス自治領であったカナダへ亡命したユリアナオランダ女王の話に遡る。亡命先のカナダで三女のマルフリーテを産む時に、オランダの王位継承者はオランダ国内で誕生したものに限る。という法律があったので、カナダ議会はマルフリーテの王女としての権利を守るため、ユリアナたちが滞在している病室をオランダの治外法権区域とする特別法を可決しマルフリーテの権利を保護した。ユリアナはこれに深く感謝し、戦後オタワにチューリップの球根を寄贈している。

 

 

 

 

 

《アルゼンチン》アルゼンチン大統領夫人エバ・ペロン氏よりアメリカディゴ、アメリカサイカチの種子が贈られる。(1953)

広島平和記念公園ガイド参考マップ≪国別・都道府県別・職種別・樹木別・樹木編≫

 

※「被爆樹木標識」読み方例:頼山陽史跡資料館内の被爆クロガネモチ S04b201は、S/04/b/2/01と区切って

爆心地からの方角S(サウス:南方向)、爆心地からの距離0.4km、移植された樹木はb・されなかった樹木はa、樹木番号は2、その場所でのその樹木の本数は01本。

 

 

※「被爆者の森」:1989年の国際平和年にちなんで日本原爆被爆者団体協議会から贈られた各都道府県を代表する樹木が植えられた。(2015年9月現在全ての樹木確認済)

場所は、広島平和記念資料館前の平和大通りを東へ徒歩約40分の所、平和大通りを挟んだ両側緑地帯の北27・北28,南25・南26の4区画にある。

北側を歩いて行き、もみじ饅頭の「にしき堂」を越えて「駅前通り」を渡ったところが北27区画にあたる。「福山通運」前あたりに案内板あり。

 

※「被爆アオギリ」:1933年に当時広島逓信局中庭に植えられた。その後1945年に被爆し(爆心地より1.3km)爆心地側の幹半分が熱戦と爆風により焼けてえぐられたが、その傷跡を包むようにして成長を続けている。1973年5月に現在地の広島平和記念公園東館北側に移植された。

 

※「被爆アオギリ二世」:2000年に親木から約10m離れた植え込みの中で自然の実生から育った「被爆アオギリ二世」と確認できる苗木が見つかり2003年3月19日に親木と同じ場所に移植された。

 

※「焦土に咲いたカンナの花」:本館出口付近に展示されている(2015年現在)写真で1945年9月に朝日新聞社カメラマンの故松本栄一氏が撮影。

爆心地から北約800mの歩兵第一補充隊(旧二部隊)〈現基町小学校校庭南門付近〉の焼跡に芽を出した。慰霊碑ー原爆ドームの軸線上にある。

広島平和記念公園内では元安橋を渡ったオープンカフェ南側の、2015年に新しくできたカキ船かなわ前辺りに咲いている。(被爆カンナかは不明と植物公園の見解)

 

※「被爆ハマユウ」:原爆投下から1ヵ月後、爆心地から約2.2km離れた比治山の広島女子商業高校〈陸軍船舶砲兵団衛生教育隊〈通称暁部隊〉が1500名駐屯していた)で焼けただれた球根から一枚の葉が出ているのを元兵長の尾島良平さんが見つけ、その後実家の鎌倉市で育てました。当時、隊員の食事を担当していた尾島さんは食材の買出しに出掛けた際に、広島市己斐町で農業を営む橋本一太さんから珍しいインドハマユウの株をもらい受け比治山の兵舎横に植えました。戦争が終わり原爆で吹き飛ばされたときに負った怪我を治し、11月に再び崩れた兵舎の前で亡き戦友を偲んで比治山に訪れた時に見付けたハマユウでした。その後ハマユウは元気に育ち、原爆にも負けない力は悪魔も打ち破るほどの勇ましさであると賞賛し、尾島さんはこの被爆ハマユウを「破魔勇」と書きました。そして世界から核兵器がなくなる日まで反核平和のシンボルとして全国、世界へ広める決意をしました。

1979年に尾島さんが亡くなった後は、御家族が被爆ハマユウを守り育て、1995年からは被爆ハマユウ・クラブが尾島さんの意思を引き継いで被爆ハマユウの普及に努めておられます。

<被爆ハマユウが贈られた場所>

広島平和記念公園(1969)

東京都上野公園内の東照宮境内:「広島・長崎の火」モニュメント横

神奈川県大船観音境内:被爆の慰霊碑近く

東京都立第五福竜丸展示館

東京大空襲・戦災資料センター

沖縄伊江島「命宝の家」反戦平和の資料館

福岡県星野村の故山本達雄さん宅

さいたまコープ南浦和プラザ

長崎県ララコープ

埼玉県原爆の図丸木美術館

広島YMCA2号館前(2006/8/4)

広島被爆ピアノ所有の矢川光則さんの工房

東京マイコー

コープこうべ協同学園

福岡県エフコープ

沖縄辺野古基地反対テント

韓国、台湾、マーシャル諸島スリランカベトナム、ネパール

 

※「原爆ドーム設計が取り持つチェコスロバキアからの友好のバラ」:1979年11月15日に同月12日に来日したチェコのシュトローガル首相から贈られたバラの苗木約100本が広島市に届いた。その内42本が動員学徒慰霊碑の元安川側に植えられた。

事の始まりは1978年12月にチェコのアロイス・インドラ連邦議会議長が原爆ドームを見学した際に設計者がチェコスロバキア人のヤン・レツル氏と知り「チェコとゆかりの深いドーム近くにぜひバラを植えたい」とバラの苗木を贈る約束が実現した。広島市も1979年2月に日本バラ協会中国支部会長を通じて日本産の〈かがやき〉,〈ふれ太鼓〉など6種18本のバラをチェコに贈った。

 

※「アンネフランクの形見(思い出)」:1989年頃、広島平和記念公園内『原爆の子の像』横の庭園に寄贈される。朱色のつぼみ、やがて黄色、そしてピンクに色が変化する色変わり種のバラ。

アンネフランクと同様に強制収容所に入れられた後、かろうじて生還したベルギーの育種家デルフォルグ氏が1947年に出版された『アンネの日記』に感動しその後8年越しに作出したバラ種で、アンネの遺志を伝えるために活動していた父オットーフランク氏に贈りました。その後1971年に平和の架け橋としてイスラエルに派遣されていた京都のキリスト教教会所属『しののめ合唱団』の牧師さんが偶然オットー氏と出会い、1972年12月25日朝「アンネフランクの形見」と名付けられたバラがオットー氏より届きました。今では京都府綾部市在住の山室さん父子によって育成され接ぎ木されたバラは平和への祈りのシンボルとして日本全土に1万株以上も贈られ咲き香っています。広島平和記念公園内の「アンネフランクの形見」は福山市ホロコースト記念館を通じて贈られました。

 

※「国際平和庭園」:『平和の時計塔』南側緑地帯

国際間の友好関係を促進する目的で1991年にアメリカ・ワシントンDCに設置された国際 平和庭園基金が毎年世界平和に貢献した都市を指名してプレートやチューリップの球根を寄贈している。2001年4月に指名された広島市ではそれ以降毎年 チューリップの球根を植えつけている。

アメリカ(1991)→ポーランド→ドイツ→ハンガリー→フランス→スロベニア南アフリカ→モザン ビーク→コスタリカ→オランダ→日本(2001)→オーストリア→イタリア→ギリシャキプロスアイルランド→スイス→ウクライナ→トルコ→ボスニアヘルツェゴビナ→・・・

 

国際平和庭園の起源は1940年ナチスドイツの侵略から逃れてイギリス、当時イギリス自治領であったカナダへ亡命し たユリアナオランダ女王の話に遡る。亡命先のカナダで三女のマルフリーテを産む時に、オランダの王位継承者はオランダ国内で誕生したものに限る。という法 律があったので、カナダ議会はマルフリーテの王女としての権利を守るため、ユリアナたちが滞在している病室をオランダの治外法権区域とする特別法を可決し マルフリーテの権利を保護した。ユリアナはこれに深く感謝し、戦後オタワにチューリップの球根を寄贈している。

 

 

《北海道・東北地方》

 

北海道 県の木・花:エゾマツ・ハマナス,被爆者の森に寄贈された樹木:ライラック

 

青森県 県の木・花:ヒバ・リンゴ,被爆者の森に寄贈された樹木:ニオイヒバ,動員学徒慰霊碑1校

 

岩手県 県の木・花:ナンブアカマツ・キリ,被爆者の森に寄贈された樹木:ナンブアカマツ,動員学徒慰霊碑2校

 

秋田県 県の木・花:アキタスギ・フキノトウ,被爆者の森に寄贈された樹木:ケヤキ

 

宮城県 県の木・花:ケヤキミヤギノハギ,被爆者の森に寄贈された樹木:ケヤキ,松島パークホテルを設計したチェコの建築家ヤン・レツル氏に宮城県知事から広島県知事に転任(1913)してきた寺田祐之氏が現・原爆ドームの設計を再度依頼した。

 

山形県 県の木・花:サクランボ・ベニバナ,被爆者の森に寄贈された樹木:サクランボ,動員学徒慰霊碑1校

 

福島県 県の木・花:ケヤキ・ネモトシャクナゲ,被爆者の森に寄贈された樹木:ケヤキ,動員学徒慰霊碑4校

 

北陸地方

 

富山県 県の木・花:タテヤマスギ・チューリップ,被爆者の森に寄贈された樹木:ケヤキ,動員学徒慰霊碑1校,「平和の鐘」は高岡市老子製作所で鋳造

 

石川県 県の木・花:アテ・クロユリ,被爆者の森に寄贈された樹木:アスナロ

 

福井県 県の木・花:マツ・スイセン,被爆者の森に寄贈された樹木:クロマツ,動員学徒慰霊碑4校

 

 

《関東地方》

 

茨城県 県の木・花:ウメ・バラ,被爆者の森に寄贈された樹木:シラウメ,動員学徒慰霊碑2校

 

栃木県 県の木・花:トチノキ・ヤシオツツジ,被爆者の森に寄贈された樹木:トチノキ,動員学徒慰霊碑1校

 

群馬県 県の木・花:クロマツレンゲツツジ,被爆者の森に寄贈された樹木:クロマツ,動員学徒慰霊碑5校

 

千葉県 県の木・花:イヌマキ・ナノハナ,被爆者の森に寄贈された樹木:イヌマキ,動員学徒慰霊碑4校

 

埼玉県 県の木・花:ケヤキサクラソウ,被爆者の森に寄贈された樹木:ケヤキ

 

東京都 県の木・花:イチョウ・ソメイヨシノ,被爆者の森に寄贈された樹木:イチョウ,動員学徒慰霊碑11校,東京大空襲:3/10~5/26(1945)死者数10万人以上

 

神奈川県 県の木・花:イチョウ・ヤマユリ,被爆者の森に寄贈された樹木:イチョウ,動員学徒慰霊碑6校

 

 

 

中部地方

 

 

新潟県 県の木・花:ユキツバキ・チューリップ,被爆者の森に寄贈された樹木:モッコク,動員学徒慰霊碑3校,※広島との歴史的関係①:初代広島城城主の毛利氏一族は越後国(現新潟県柏崎市)より安芸国高田郡吉田(現広島県安芸高田市)へ入封→(山口県の記載へ)

 

長野県 県の木・花:シラカバ・リンドウ,被爆者の森に寄贈された樹木:ケヤキ,動員学徒慰霊碑1校,松代大本営跡地,※広島との歴史的関係④:(愛知県の記載から)→福島正則が広島へ入封後、洪水(1619/6)で損壊した広島城を無断改修した武家諸法度違反を咎められ上信濃国川中島藩(現長野県)に減転封される→(和歌山県の記載へ)

 

山梨県 県の木・花:カエデ・フジザクラ,被爆者の森に寄贈された樹木:イロハモミジ,動員学徒慰霊碑6校

 

静岡県 県の木・花:モクセイ・ツツジ,被爆者の森に寄贈された樹木:キンモクセイ,動員学徒慰霊碑62校

 

愛知県 県の木・花:ハナノキ・カキツバタ,被爆者の森に寄贈された樹木:ハナノキ,動員学徒慰霊碑23校,※広島との歴史的関係③:(山口県の記載から)→その後、尾張国清州(現愛知県)より福島正則が広島へ入封→(長野県の記載へ),名古屋大空襲:3/12~5/14(1945)死者数7858人

 

岐阜県 県の木・花:イチイ・レンゲ,被爆者の森に寄贈された樹木:イチイ,動員学徒慰霊碑1校

 

三重県 県の木・花:ジングウスギ・ハナショウブ,被爆者の森に寄贈された樹木:イチョウ,動員学徒慰霊碑2校

 

 

 

近畿地方

 

滋賀県 県の木・花:モミジ・シャクナゲ,被爆者の森に寄贈された樹木:ヤマモミジ,動員学徒慰霊碑2校

 

京都府 県の木・花:キタヤマスギ・シダレザクラ,被爆者の森に寄贈された樹木:シダレザクラ,動員学徒慰霊碑5校

 

大阪府 県の木・花:イチョウ・ウメ/サクラソウ,被爆者の森に寄贈された樹木:イチョウ,動員学徒慰霊碑34校,大阪大空襲:3/13~6/26(1945)死者数1万人以上

 

兵庫県 県の木・花:クスノキ・ノジギク,被爆者の森に寄贈された樹木:クスノキ,動員学徒慰霊碑3校

 

奈良県 県の木・花:スギ・ナラヤエザクラ,被爆者の森に寄贈された樹木:ヤエザクラ,動員学徒慰霊碑1校

 

和歌山県 県の木・花:ウバメガシ・ウメ,被爆者の森に寄贈された樹木:ウバメガシ,動員学徒慰霊碑1校,※広島との歴史的関係⑤:(長野県の記載から)→広島は福島正則に代わって紀州藩(現和歌山県)より浅野長晟が入封しその後廃藩置県まで浅野藩が継続した。(終)

 

 

 

 

《中国・四国地方

 

鳥取県 県の木・花:ダイセンキャラボク・ナシ,被爆者の森に寄贈された樹木:ナシ

 

島根県 県の木・花:クロマツ・ボタン,被爆者の森に寄贈された樹木:クロマツ,動員学徒慰霊碑2校,原爆投下直後浜田連隊からの救護活動,雲南市三刀屋町長崎市永井隆記念館の姉妹館「雲南市永井隆記念館」開館(1970)

 

岡山県 県の木・花:アカマツ・モモ,被爆者の森に寄贈された樹木:アカマツ,動員学徒慰霊碑6校,原爆が落とされた翌日に日本銀行岡山支店より五十嵐支店長の要請で外科医2名を含む救助隊派遣8月8日未明到着(11日までに本店、大阪、神戸、門司支店からも応援)

 

広島県 県の木・花:モミジ・モミジ,被爆者の森に寄贈された樹木:ヤマモミジ,広島大学の森戸学長が世界に呼びかけて贈られたものと己斐植林組合が植えたメタセコイア白神社前にあり(1957),庄原市七塚原実習農場よりトチノキ(1958),動員学徒慰霊碑80校,広島市出身の大木惇夫氏の作詞、茨城県水戸市出身の佐藤眞氏の作曲による「混声合唱とオーケストラのためのカンタータ〈土の歌〉終曲:大地讃頌」(1962),広島平和記念公園内の平和祈念慰霊国民大祭記念碑「祈り」の碑文「平和を祈り御霊を鎮めん」も大木氏による。(1960/8/15)

 

山口県 県の木・花:アカマツ・ナツミカン,被爆者の森に寄贈された樹木:アカマツ,動員学徒慰霊碑24校,※広島との歴史的関係②:(新潟県の記載から)→関が原の戦い(1600)で西軍の総大将として参戦し敗戦した毛利輝元は防長2国(長州藩・現山口県)に減封された→(愛知県の記載へ)

 

香川県 県の木・花:オリーブ・オリーブ,被爆者の森に寄贈された樹木:オリーブ,小豆島池田町長より平和の木オリーブが贈られ「オリーブの森」として被爆者の森の隣に植えられる。(1971),動員学徒慰霊碑1校

 

愛媛県 県の木・花:マツ・ミカン,被爆者の森に寄贈された樹木:クロマツ,動員学徒慰霊碑1校,今治市で小・中を過ごした丹下健三氏が広島平和記念公園を設計した。(他に代々木第一体育館東京カテドラル聖マリア大聖堂東京都庁舎・香川県庁等)

 

徳島県 県の木・花:ヤマモモ・スダチノハナ,被爆者の森に寄贈された樹木:ヤマモモ,動員学徒慰霊碑3校

 

高知県 県の木・花:ヤナセスギ・ヤマモモ,被爆者の森に寄贈された樹木:シラカシ

 

 

 

 

《九州地方》

 

福岡県 県の木・花:ツツジ・ウメ,被爆者の森に寄贈された樹木:モチノキ,動員学徒慰霊碑2校,八女市星野村「平和の塔」に原爆による唯一の現存する火種「平和の火」あり。

 

長崎県 県の木・花:ヒノキ・ツバキ/ウンゼンツツジ,被爆者の森に寄贈された樹木:ヤブツバキ,動員学徒慰霊碑9校

 

佐賀県 県の木・花:クスノキ・クスノキ,被爆者の森に寄贈された樹木:クスノキ

 

大分県 県の木・花:ブンゴウメ・ブンゴウメ,被爆者の森に寄贈された樹木:ブンゴウメ,動員学徒慰霊碑5校,※広島との歴史的関係⑥:大分県から転任してきた県令(現知事)の千田貞暁氏が当時、琵琶湖工事と並ぶ日本の二大工事と言われた宇品港建設を指揮し、その後日清・日露戦争での大陸への拠点となる港となり広島が以後軍都として発展する礎となる。

 

熊本県 県の木・花:クス・リンドウ,被爆者の森に寄贈された樹木:クスノキ,動員学徒慰霊碑1校

 

宮崎県 県の木・花:フェニックス・ハマゴウ,被爆者の森に寄贈された樹木:フェニックス,動員学徒慰霊碑1校

 

鹿児島県 県の木・花:クス/カイコウズ・ミヤマキリシマ,被爆者の森に寄贈された樹木:カイコウズ,動員学徒慰霊碑11校

 

沖縄県 県の木・花:リュウキュウマツデイゴ,被爆者の森に寄贈された樹木:カンヒザクラ,動員学徒慰霊碑16校,沖縄戦:3/26~6/23(1945)死者数20万人に上る(詳細は別途)

 

広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?《11月》

 
1 国際軍縮要求デー/広島市民約800人がデモ行進。慰霊碑前で『原水爆禁止と全面軍縮のための広島集会』を開く(1962)
2 トルーマン米大統領再選(1948),ABCCが0~499mの被爆人口6230人(生存者220人)生存率3.5%、500~999mの被爆人口24960人(生存者4240人)生存率17.0%等の1949年から1959年までの研究成果をまとめる(1960),ケネディ米大統領が声明「安全に必要になれば大気圏内の核実験を行う準備を整える」(1961),原子炉安全専門審査会が「福島県内に建設予定の東京電力原子力発電所計画は安全性が確認された」と原子力委員会に報告(1966),政府が閣議で米原子力空母エンタープライズなど原子力艦船の日本寄港を承認(1967),米ソの戦力兵器制限交渉(SALT)がヘルシンキで再開(1970),被爆者の怪獣扱いで円谷プロダクション広島県被団協に謝罪文(1970),創価学会池田大作会長が「戦争絶滅・平和確立・人 間尊重を目標とする宗教者の立場から国内外で平和運動を繰り広げていく」方針を打ち出す(1972),オーストラリア訪問中の田中首相がホイットラム首相と会談、核実験反対・核拡散防止へ協力(1974),広島学院中の生徒が原爆資料館の英訳展示の誤りを調査、文化祭で発表。広島市が12か所修正へ(1977),広島・長崎朝鮮人被爆者実態調査団が現地調査を始める。広島で52人に面接、強制連行者は8人(1979),「米映画『征服者』(1956製作)のネバダ州ロケに参加した俳優やスタッフ220人の内91人が癌にかかり、主演のジョン・ウェインや女優のスーザン・ヘイワードを含め46人が死亡」と米週刊誌ピープルが記事掲載(1980),原爆で国民義勇隊の夫を奪われ『原爆未亡人村』といわれた安佐南区の川内温井地区で戦後初めて神楽が 復活(1982),広島木材青年経営者協議会が『木の日』(10月8日)記念事業で平和記念公園内の国旗掲揚ポール寄付(1982),相生橋の全面架け替え工事完了、6年の工期と48億円投入(1983),10月28日の仏核実験に抗議し被爆者らが広島県内28か所で座り込み(1984),広島視力障害者協議会が視力障害者のための慰霊碑巡りの会を開き約60人参加(1986),安田女子高の生徒らが文化祭で英中央情報局の『PROTECT and SURVIVE』に掲載の簡易核シェルターをつくり、非常識さを実感(1987),米誌USニューズ・アンド・ワールドリポートが「9月25日の中国地下核実験で漏れた放射性物質が風で運ばれ日本に降下しようとしている」と報道(1992),原子力委員会が「低レベル放射性廃棄物の海洋投棄を将来にわたって断念」と決定、ロンドン条約締約国会議で海洋投棄禁止の提案に賛成へ(1993)
3 日本国憲法(1946),永井隆博士の呼びかけでまとめられた子供たちの体験文『原子雲の下に生きて』の印税をもとに『あの子らの碑(慰霊・反戦)』を建立(1949)
5 広島大の開学式(1950)
6 被爆死した朝鮮王朝の李公の夫人、李賛珠さんが夫の陸軍士官学校の同期生らの招きで来日し広島へ。李公は当時、広島の第2総軍参謀中佐(1963)
7 一般募集した百メートル道路の二橋の名前が決定。新橋(元安川)を『平和大橋』、新大橋(本川)を『西平和大橋』、百メートル道路は『平和大通り』に(1951),米CBSテレビが「米原オーガスタが2週間前、大西洋でソ連原潜と衝突事故」と報道(1986),外務省が在韓被爆者の渡日治療再開を断念。韓国側から再開を求める打診がなかったため。対策費4200万円は『国際拠出金』名目で大韓赤十字社に送金、韓国原爆被害者協会の運用に任す(1989),ソ連の改革派週刊誌モスクワ・ニュースが「チェルノブイリ原発事故で従業員や汚染除染作業に従事した人のうち250人以上が死亡」と伝える。従来の公式発表死者は31人(1989),1954年9月14日にソ連軍がウラル山脈で 、兵士約4万5千人と市民数千人を実験台にしたとされる核実験の模様を撮影したフィルムをフィンランドの会社が入手-。ニューヨーク・タイムズが報道(1993)
8 広島市基町相生通り、通称 『原爆スラム』で大火、同地区の大火は1961年以降9回目(1971)
9 英連邦と通商協定成立(1948),第1回ABCC日本側評議会を東京で開催(1955),原爆障害者救援事業広島委員会が渡米治療の 選にもれた原爆乙女18人の手術を広島で開始することを決定(1956),ホノルルの日/広島市姉妹・友好都市ホノルル市(米)/(友好都市提携日は1959年6月15日),レーガン米大統領来日。広島市原爆ドーム前では「レーガンを広島に」運動のメンバーが横断幕を掲げ、大統領来広を呼びかける。メンバーのローレンス・ウイッグさんに大統領事務官から「日程の都合で広島訪問はできない」と返書(1983)
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11 上海陥落(1937/中国)
12  広島でノーベル平和賞受賞者サミット開催/8人・13団体の過去の受賞者・団体が参加(2010/11/12~14)
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14 元産業奨励館のドームを広島市に譲与する通知を広島県が大原博夫知事名で出す。市は保存措置をせず自然放置の方針(1953),広島市広島平和記念都市建設法(1949年8月公布)10周年の記念感謝式を東京・椿山荘で開く。岸首相や国会議員ら約150名が出席。30日には広島市の平和記念資料館で記念式典(1959),広島原爆を投下したエノラ・ゲイの副操縦士ロバート・ルイス氏の飛行日誌がニューヨークで競売、8万5千ドルで落札。「せん光が光った15秒後に激しい衝撃が2度あり、私たちの目の前に、疑いもなく人類が今まで
目撃した中で最大の爆発があった。もし私が百年生きたとしてもこ の数分間を忘れることはできないだろう」(1978),米テニアン基地で原爆投下機を見送ったミシガン州の元従軍牧師ジョージ・ザベルカさんが、7か月かけて米大陸を横断。ざんげの気持ちで核廃絶を訴え(1982),ろうあ者でべっ甲細工職人の長崎市の池田杉男さんが原爆漫画『ノーモア・ろうあ被爆者』出版(1986),広島市立国泰寺中学の1年生が原爆犠牲者の重みを実感しようと22万人分の顔写真集める(1987),フロイド・シュモーさんが、東宮御所明仁皇太子夫妻を訪問。40年前、友人で当時、皇太子の家庭教師をしていたエリザベス・バイニング夫人の紹介で皇太子に会う。今回は小学生時代にボランティアで『ヒロシマの家』づくりに参加した池田行彦代議士の骨折りで訪問(1988)
15 広島市の日銀広島支店 保存で『中区文化を考える会』など市民団体が署名集めへ(1988)
16 トム・コナリー米上院外交委員長が中国軍国連軍捕虜虐殺に対する報復措置として原爆使用に賛成を表明(1951)
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20 バラックの社殿で胡子大祭開催(1945),広島市民球場に替わる新球場建設に向けた『平成のたる募金』 開始(2004)
21 広島市似島中学校グランドから発掘された被爆者の遺骨517柱の霊をまつる『原爆死没者慰霊碑』が完成し、発掘1周年の現地で除幕式(1972),原爆ドームが取り持つ縁でチェコスロバキアから友好のバラの苗木約100本が広島市に届く。1978年12月にチェコスロバキアのアロイス・インドラ連邦議会議長がドーム見学、設計者がチェコスロバキア人のヤン・レツル氏と知りバラを送ることを約束(1979),原爆の爆風で吹き飛ばされた元安橋欄干の一部が36年ぶりに元安川から発掘。22点(1981),原爆死没者の納骨堂を建設中の山口市江良の建設予定地から被爆旧軍人の骨片多数を発掘(1984),原爆の影響でいびつだった広島市の人口構成が、ほぼ全国型に回復。市の調査で判明(1986),被爆アオギリ二世が宮城県 女川高校から広島市の被爆語り部沼田鈴子さんのもとに帰る(1990),「ロシアが旧ソ連時代から30年以上にわたり、国内で発生した全放射性廃棄物のほぼ半分に相当する約30億キュリー分の廃液を地中に直接注入」と米紙ニューヨーク・タイムズが報道(1994)
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23  浦上のカトリック信者300人が浦上天主堂脇の広場で原爆犠牲者合同慰霊祭/原爆犠牲者の初め ての慰霊/長崎年表(1945)
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28 広島市の下土井氏がアイルランドで競売予定だった原爆投下機エノラ・ゲイのポール・チベッツ機長の『飛行日誌』(1937年から2年間)、『飛行慣熟書の教範』、『エノラ・ゲイ副操縦士ロバート・ルイス大尉の飛行日誌写し』などを入手(1979),『第五福竜丸平和協会』が発足20年。この間、協会が管理する東京・夢の島の都立福竜丸展示館を約220万人が見学(1993),広島市出身の作家、故梶山季之氏の遺志を継いだ『梶山季之基金』が、広島の画家新延輝雄さんが被爆50年を記念して描いた『原爆忌はるかに』を市に寄贈。広島記念資料館東館で除幕式(1994)
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30 広島原爆の死者78150人、行方不明13983人、軽傷279 97人、罹災者176987人/『広島市空襲被害に関する報告』(1945),広島市議会全員協議会が「都市建設は国家事業で実施するよう」政府に請願書を提出することを承認、市・議会・市民一体で平和記念都市建設の運動展開へ(1948),UP通信などによると「米トルーマン大統領は朝鮮で原子爆弾の使用を考慮中である」と打電(1950),財団法人日本原子力研究所設立(1955),広島市特別名誉市民で精神養子運動を提唱した米のノーマン・カズンズさんがロサンゼルスで死去。75歳(1990)
 
 
出典:図録ヒロシマを世界に/広島平和記念資料館
    年表ヒロシマ核時代50年の記録/中国新聞