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広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?《3月》

 

1 独立運動記念日・三一節(1919韓国),マーシャル諸島ビキニ環礁で米が水爆実験、第五福竜丸被爆(1954),広島市公会堂完工(1955)

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3 米コロンビア大で核分裂実証実験成功(1939)

4 「元大正屋呉服店を保存する会」などの団体、広島市レストハウス保存を求める署名を提出(1996)

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7 広島市復興審議会が都市計画決定。空港は観音新開、市役所は国泰寺町に(1947),第1回広島県学校復興宝くじの抽選発表が広島東宝映画劇場で。特等20万円、特賞総桐たんす(1948),第4回広島、長崎両原爆都市青年交歓会が長崎市で開催(1953),「原爆文学」論争で日本歌人クラブ会員の深川宗俊氏が「悲しみに耐えてー『原爆文学』論を中心に」を中国新聞夕刊に掲載(1953),衆参両院の原爆実験禁止要望決議について英政府が回答文「英およびその同盟国が核兵器を所有することが、侵略と大規模戦争の発生を防止するため主要な要素であると考える。実験はこれら兵器の発達過程における不可欠の部分にほかならない。・・・今後の実験に際しては、人命、財産に対するいかなる被害をも回避するため可能なあらゆる手段を講ずる」(1956),高山信武統幕会議事務局長が呉地方総監部を視察。「防衛庁は原爆戦下における戦略戦術は考えている。防御用原子兵器としてのロケット、誘導弾、これに伴う航空兵器など7種類を研究用として米から供与を受ける」(1957),日本原水協などのクリスマス島水爆実験抗議船団の派遣に広島市内の河本一郎さんと上松時恵さんが名乗り。「原爆の洗礼を浴びたわれわれが無言の抗議を行い、人類の危機を救いたい」(1957),原水禁広島協議会が企画した紙芝居『手をつなぐ世界のこどもたち』(作・鈴木正道氏、絵・四国五郎氏、全巻200枚)が完成し広島で発表会(1957),ジュネーブの国際海洋法会議でポーランド、イエメンが公海での核実験禁止を海洋法に盛り込むよう提案(1958),広島原爆病院を治療途中で退院した韓国人被爆者女性2名が帰国。日本政府に申請していた被爆者健康手帳の交付は実現せず(1969),国鉄の理事会が広島市内の宇品線を4月1日から廃止決定。宇品線は1966年12月から広島―上大河町2.4キロの定期旅客と貨物を残し既に廃止(1972),長崎で被爆した元オランダ兵捕虜のH・V・ミエロブさんが治療のため長崎に(1978),広島市翠町中学校に米平和運動家アリス・ハーズさんをしのぶ記念碑が完成、除幕式(1983),故周恩来中国首相の生誕90周年を記念する追悼文集『尽きぬ思い』が発売。中国の原爆開発秘話を掲載。「1964年10月16日の最初の核実験は失敗に備え2発用意」「文革中に1度、水爆実験に失敗」(1988)

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10 東京大空襲(1945),雑誌「中国文化」創刊、栗原貞子氏の詩「生ましめん哉」掲載(1946),峠三吉氏36歳で死去(1953),岡山ー博多間山陽新幹線開通(1975),第3回目の原爆ドーム保存工事完了(2003)

11 東日本大震災(2011)

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14 広島県など主催の県産業復興展覧会が広島市で始まる(1947),中国の王世李*《「李」の漢字表記:「木」の下は「子」でなく部首の「れっか」》外交部長が言明。「現在、原子爆弾の秘密を知っているのは米英カナダに限られているが、5年後にはこの秘密は世界に知れ渡るであろう。原子爆弾戦争を避けることは世界の政治家に課せられた緊急課題」(1948),故原民喜氏の詩碑の銅板盗難で柴村春文氏が「民喜『詩碑の記』銅板どろぼうよ」と題した詩を中国新聞夕刊に掲載(1953),原爆乙女の平和の悲願を壁画にして寄贈したいと大阪市の栄養化学株式会社が阪大病院に申し出。入院中の乙女の心に打たれる。壁画制作は伊藤継郎画伯に委託(1953),第五福竜丸が焼津港に帰港。乗組員23人の中で重症の2名を東大病院で診察(1954),トルーマン前米大統領が原爆投下問題で広島市議会議長に返書を発送。「広島市民の感情は容易に理解できるし、市議会の決議によって私の感情はいささかも傷つけられるものではない。広島と長崎の犠牲は日本と連合国の将来の福祉のためにせっぱつまった必要な措置だったと考える。もし日本が1941年12月にパールハーバーで闇討ちを仕掛けなければ、このような重大決定をする必要はもちろん決して起こらなかったであろう」広島の関係者は「なんの反省もない」と怒り(1958),起爆装置をつけない核弾頭を積んだ米空軍のB52が米カリフォルニア州コバシチー近くに墜落(1961),ユーゴスラビア訪日団が原爆資料館など見学、原爆病院にブロンズ像「花を抱く少女」贈る(1965),ビキニ米水爆実験で死の灰を浴びたマーシャル諸島ロンゲラップ島の村長が広島入り。広島原爆病院院長と荒木市長を訪ね専門医師派遣の協力要請。ロンゲラップ島では86人が死の灰を浴び既に20人が死亡。残った66人のうち33人が甲状腺手術を受ける(1975),米ユタ州立大教授が広島の放射線影響研究所を訪れ、ネバダ核実験被曝米兵を1957年から調べていたと公表。被曝米兵を放置してきた米政府を批判(1978),米ロスアラモス国立研究所オッペンハイマー所長が1945年にプルトニウムを人体に注射する実験を支持する手紙を書いていたことが判明(1994),アストラムライン工事現場で橋桁落下事故15名死亡(1994)

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18 広島・市内3番目の原爆特別養護ホーム「矢野おりづる園」完成(2007)

19 昭憲皇太后、広島に行幸(1895)

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22 NHK広島開設(1956)

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24 芸予地震広島県で死者1名(2001)

25 西練兵場で臨時招魂祭、日露戦争の戦病死者3450人を合祀(1906),アインシュタイン博士が原子力政策に関してルーズベルト=シラード会談を提唱(1945)

26 安重根処刑の日(1910韓国),米軍が沖縄に上陸(1945),広島市、爆心地から半径約2キロメートル以内の被爆樹木に説明プレート設置(1998)

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28 マツダスタジアム完成(2009)

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31 広島市、広島平和記念都市建設計画を決定(1952),広島大が東広島市への統合移転完了(1995)

 

 

※出典:「図録 ヒロシマを世界に/広島平和記念資料館」,「年表ヒロシマ<核時代50年の記録>/中国新聞/1995年発行」,他