広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?《6月》

 

 

1 原民喜三田文学に「夏の花」発表(1947),広島平和記念館開館(1955),被爆建物広島地方気象台、改修され全国初の気象博物館「広島市江波山気象館」として開館(1992)

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5 重慶爆撃(1941中国),彫刻家柳原義達氏が寄贈したラ・パンセのブロンズ像が広島平和大通りのアメリカ文化センター前緑地帯に設置され除幕式(1953),広島YMCAは世界各国8500カ所のYMCAへ原水爆実験反対を訴える手紙を送ることを決める(1957),米原子力軍事政策の理論的総師リビー博士が「核実験に伴う危険は核兵器を放棄する結果生じる危険より小さい」と主張(1957),原爆ドームの頂上によじ登った岡山県の青年が説得されて降りてくる途中に転落、死亡(1966),原子力潜水艦スコーピオンは99人の乗組員とともに救助不能な大西洋の深海に沈没。と米海軍発表(1968),日本原子力研究所東海研究所内でプルトニウム廃液のびんが破裂し部屋が汚染。衆院科学技術振興対策特別委員会で明るみに、事故は4月、放射能は許容量以下(1969),核禁止アピール被爆者の会、代表が東京の在日米大使館を訪れ「米軍岩国基地の核訓練を止め核兵器を直ちに撤去せよ」とのニクソン米大統領宛の抗議文を手渡す(1972),日本非破壊検査会社水島出張所が5年前に使い古しのイリジウム192を違法に空き地に埋めていたことが判明。倉敷保健所が住民の健康診断へ(1974),第2回日米核燃料再処理問題交渉で米が東海村再処理工場の操業方法に関し「プルトニウムの単体抽出は認めない」との方針を示す。日本側は核兵器転用が不可能な代替抽出方法を提案(1977),米空母ミッドウェーが横須賀寄港。社会、共産両党などの抗議船22隻が取り囲み陸上でも約2500人が集会やデモ。岸壁では第7艦隊自衛隊が歓迎マーチ演奏、自民党二階堂進総務会長、源田実国防部会長らが寄港を歓迎。外務省首脳が「ミッドウェー寄港延期を米側と交渉したが①延期するとかえって疑惑を深める②次の寄港がもっと激しい反対を招く。と拒否された」と述べる(1981),広島市元安川河床美化事業で掘り出した被爆瓦の一般公開と希望者への配布を開始。初日に200人が持ち帰る(1982),「中国がソ連向けに114~155基の核弾頭装備弾道ミサイルを配備」と米国防総省が発表(1984),全国ほたる研究会のメンバーが結成20周年を記念し広島市三滝の原爆無縁墓で全国から持ち寄ったホタル1300匹を放し犠牲者の冥福を祈る(1987),広島国税局が開局40周年を記念し原爆ドーム保存募金に142万9400円を寄付(1989),米下院が1950年代の大気圏核実験で被曝し、がんなどにかかった周辺住民の健康被害補償法案を可決、上院へ。補償額は1人当たり5万ドル、ウラン鉱山の被曝労働者は10万ドル(1990),日本被団協が1985年に実施した原爆被害者調査の最終結果を発表。死を免れた被爆者のうち63%の8281人が「何らかの罪意識」。「助けられなかった」(7%)「負傷者に水をやらなかった」(3%)など(1993),1991年11月、ロシア軍ミサイル運搬船の「新型ミサイル」がサハリン南部でしけのため海中に転落。ロシア国防相が指揮したが回収できず(1993)

6 日本被団協が全国理事会で結成30周年を記念し広島市内に「被爆者の森」建設を決める(1986)

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8 故ルーズベルト米大統領夫人のエレノア・ルーズベルトさん広島市訪問(1953)

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12 スイスで開かれるMRA運動世界大会に向け広島県知事、市長、市議会議長一行が羽田出発、浜井市長が16日の会議で「真の平和は単に祈ったり希望しただけでは確保されない」(1950),丸木位里、俊夫妻が水爆をテーマにした「焼津」を東京都美術館のニッポン展で発表(1955),日本向けモスクワ放送の原爆投下について「ソ連は当時米に対して原子兵器を使用しないよう提案したが米はこれを拒否した」これに対して「デタラメだ。スターリン元首相は新兵器を使うべきだとの点でチャーチル前英首相および私と完全に意見が一致していた」と米トルーマン大統領が反論(1956),広島逓信病院院長に手術中に亡くなった原爆乙女、中村さんの死亡模様を綴った手紙が手術渡航先の米ニューヨークの病院より届く(1956),日本初の原子力船「むつ」が石川島播磨重工東京第2工場で進水式青森県むつ市へ自力回航し原子炉を積み込んで1972年1月完成予定。公表された原子力船としてはソ連のレーニン、米のサバンナ、西独のオットーハーンに次ぎ世界で4隻目(1969),高陽中学校生徒会が広島原爆病院にホタルを贈る1958年以来15回目(1972),米政府原子力委員会がワシントン州リッチランドの放射性廃棄物貯蔵タンクから過去最大の放射能漏れ事故があったと発表、11.5万ガロン(米タイムズ紙は50万ガロンと報道)。「漏れた放射能は地上には拡散しておらず一般への危険はない。しかし、5~6万キュリーの放射能が地下で消滅するには150年はかかる」とハンフォード原子力研究所の所長談(1973),広島大構内で「原爆死没者追悼の碑」起工式/死没者702人内訳:広島文理科大21、広島高師23、同付属小・中32、広島女高師・山中高女395、広島工専90、広島高校31と各校の教職員110、文理科大や高師に在学していた東南アジア・中国・モンゴルの留学生7(1974),米政府が「核兵器の保有、使用を放棄した非同盟国に対しては核攻撃しない」と声明(1978),広島県山県郡戸河内町、上殿小の児童が広島赤十字・原爆病院を山ユリ慰問。毎年続け40回目(1989),原水禁国民会議北朝鮮訪問団が平壌市内で広島、長崎の被爆者5人と交流(1991),被爆直後、広島赤十字病院で治療を受けた被爆者や当時の医師、看護師らが手記集「いのちの塔」を出版(1992)

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14 慢性骨髄白血病でABCCに入院していた比治山女子高生が同級生522人の献血も届かず死去。「被爆者健康手帳がないため治療も十分にできず、無料のABCCに入院させていた。被爆二世に援護の手が差し伸べられていない現状が残念」と母親談(1969)

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18 広島原爆死者20数万人(1953)

19 米上院軍事委員会が米海軍を原子兵器で武装した原子力潜水艦を建造する法案を承認(1950),米原爆スパイ事件のローゼンバーグ夫婦に死刑執行(1953),広島市中島地区の復元銅板地図、平和記念資料館に設置/贈呈式は7月9日(1972)

20 広島市、爆心に「平和記念公園」建設決定(1948)

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22 日韓基本条約調印(1965)

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24 原爆死没者の検死調書、広島東警察署で見つかる(1968)

25 朝鮮戦争勃発〈ユギオ〉(1950韓国)

26 国際連合憲章署名日:サンフランシスコ会議で51カ国署名、日本は未だ(1945)

27 胎内被爆小頭症患者とその親の集まり「きのこ会」発足(1965)

28 アメリカ、スミソニアン航空宇宙博物館で「エノラ・ゲイ展」開幕当初の展示計画が大幅に変更される/~1998年5月18日まで(1995),石見銀山遺跡〈大田市〉が世界遺産登録決定(2007)

29 六月民主抗争(1987韓国),集中豪雨、広島市呉市を中心に広島県内で死者・行方不明32人(1999)

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※出典:図録 ヒロシマを世界に/広島平和記念資料館

           年表 ヒロシマ<核時代50年の記録>/中国新聞