広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?《11月》

 
1 国際軍縮要求デー/広島市民約800人がデモ行進。慰霊碑前で『原水爆禁止と全面軍縮のための広島集会』を開く(1962)
2 トルーマン米大統領再選(1948),ABCCが0~499mの被爆人口6230人(生存者220人)生存率3.5%、500~999mの被爆人口24960人(生存者4240人)生存率17.0%等の1949年から1959年までの研究成果をまとめる(1960),ケネディ米大統領が声明「安全に必要になれば大気圏内の核実験を行う準備を整える」(1961),原子炉安全専門審査会が「福島県内に建設予定の東京電力原子力発電所計画は安全性が確認された」と原子力委員会に報告(1966),政府が閣議で米原子力空母エンタープライズなど原子力艦船の日本寄港を承認(1967),米ソの戦力兵器制限交渉(SALT)がヘルシンキで再開(1970),被爆者の怪獣扱いで円谷プロダクション広島県被団協に謝罪文(1970),創価学会池田大作会長が「戦争絶滅・平和確立・人 間尊重を目標とする宗教者の立場から国内外で平和運動を繰り広げていく」方針を打ち出す(1972),オーストラリア訪問中の田中首相がホイットラム首相と会談、核実験反対・核拡散防止へ協力(1974),広島学院中の生徒が原爆資料館の英訳展示の誤りを調査、文化祭で発表。広島市が12か所修正へ(1977),広島・長崎朝鮮人被爆者実態調査団が現地調査を始める。広島で52人に面接、強制連行者は8人(1979),「米映画『征服者』(1956製作)のネバダ州ロケに参加した俳優やスタッフ220人の内91人が癌にかかり、主演のジョン・ウェインや女優のスーザン・ヘイワードを含め46人が死亡」と米週刊誌ピープルが記事掲載(1980),原爆で国民義勇隊の夫を奪われ『原爆未亡人村』といわれた安佐南区の川内温井地区で戦後初めて神楽が 復活(1982),広島木材青年経営者協議会が『木の日』(10月8日)記念事業で平和記念公園内の国旗掲揚ポール寄付(1982),相生橋の全面架け替え工事完了、6年の工期と48億円投入(1983),10月28日の仏核実験に抗議し被爆者らが広島県内28か所で座り込み(1984),広島視力障害者協議会が視力障害者のための慰霊碑巡りの会を開き約60人参加(1986),安田女子高の生徒らが文化祭で英中央情報局の『PROTECT and SURVIVE』に掲載の簡易核シェルターをつくり、非常識さを実感(1987),米誌USニューズ・アンド・ワールドリポートが「9月25日の中国地下核実験で漏れた放射性物質が風で運ばれ日本に降下しようとしている」と報道(1992),原子力委員会が「低レベル放射性廃棄物の海洋投棄を将来にわたって断念」と決定、ロンドン条約締約国会議で海洋投棄禁止の提案に賛成へ(1993)
3 日本国憲法(1946),永井隆博士の呼びかけでまとめられた子供たちの体験文『原子雲の下に生きて』の印税をもとに『あの子らの碑(慰霊・反戦)』を建立(1949)
5 広島大の開学式(1950)
6 被爆死した朝鮮王朝の李公の夫人、李賛珠さんが夫の陸軍士官学校の同期生らの招きで来日し広島へ。李公は当時、広島の第2総軍参謀中佐(1963)
7 一般募集した百メートル道路の二橋の名前が決定。新橋(元安川)を『平和大橋』、新大橋(本川)を『西平和大橋』、百メートル道路は『平和大通り』に(1951),米CBSテレビが「米原オーガスタが2週間前、大西洋でソ連原潜と衝突事故」と報道(1986),外務省が在韓被爆者の渡日治療再開を断念。韓国側から再開を求める打診がなかったため。対策費4200万円は『国際拠出金』名目で大韓赤十字社に送金、韓国原爆被害者協会の運用に任す(1989),ソ連の改革派週刊誌モスクワ・ニュースが「チェルノブイリ原発事故で従業員や汚染除染作業に従事した人のうち250人以上が死亡」と伝える。従来の公式発表死者は31人(1989),1954年9月14日にソ連軍がウラル山脈で 、兵士約4万5千人と市民数千人を実験台にしたとされる核実験の模様を撮影したフィルムをフィンランドの会社が入手-。ニューヨーク・タイムズが報道(1993)
8 広島市基町相生通り、通称 『原爆スラム』で大火、同地区の大火は1961年以降9回目(1971)
9 英連邦と通商協定成立(1948),第1回ABCC日本側評議会を東京で開催(1955),原爆障害者救援事業広島委員会が渡米治療の 選にもれた原爆乙女18人の手術を広島で開始することを決定(1956),ホノルルの日/広島市姉妹・友好都市ホノルル市(米)/(友好都市提携日は1959年6月15日),レーガン米大統領来日。広島市原爆ドーム前では「レーガンを広島に」運動のメンバーが横断幕を掲げ、大統領来広を呼びかける。メンバーのローレンス・ウイッグさんに大統領事務官から「日程の都合で広島訪問はできない」と返書(1983)
10
11 上海陥落(1937/中国)
12  広島でノーベル平和賞受賞者サミット開催/8人・13団体の過去の受賞者・団体が参加(2010/11/12~14)
13
14 元産業奨励館のドームを広島市に譲与する通知を広島県が大原博夫知事名で出す。市は保存措置をせず自然放置の方針(1953),広島市広島平和記念都市建設法(1949年8月公布)10周年の記念感謝式を東京・椿山荘で開く。岸首相や国会議員ら約150名が出席。30日には広島市の平和記念資料館で記念式典(1959),広島原爆を投下したエノラ・ゲイの副操縦士ロバート・ルイス氏の飛行日誌がニューヨークで競売、8万5千ドルで落札。「せん光が光った15秒後に激しい衝撃が2度あり、私たちの目の前に、疑いもなく人類が今まで
目撃した中で最大の爆発があった。もし私が百年生きたとしてもこ の数分間を忘れることはできないだろう」(1978),米テニアン基地で原爆投下機を見送ったミシガン州の元従軍牧師ジョージ・ザベルカさんが、7か月かけて米大陸を横断。ざんげの気持ちで核廃絶を訴え(1982),ろうあ者でべっ甲細工職人の長崎市の池田杉男さんが原爆漫画『ノーモア・ろうあ被爆者』出版(1986),広島市立国泰寺中学の1年生が原爆犠牲者の重みを実感しようと22万人分の顔写真集める(1987),フロイド・シュモーさんが、東宮御所明仁皇太子夫妻を訪問。40年前、友人で当時、皇太子の家庭教師をしていたエリザベス・バイニング夫人の紹介で皇太子に会う。今回は小学生時代にボランティアで『ヒロシマの家』づくりに参加した池田行彦代議士の骨折りで訪問(1988)
15 広島市の日銀広島支店 保存で『中区文化を考える会』など市民団体が署名集めへ(1988)
16 トム・コナリー米上院外交委員長が中国軍国連軍捕虜虐殺に対する報復措置として原爆使用に賛成を表明(1951)
17
18
19
20 バラックの社殿で胡子大祭開催(1945),広島市民球場に替わる新球場建設に向けた『平成のたる募金』 開始(2004)
21 広島市似島中学校グランドから発掘された被爆者の遺骨517柱の霊をまつる『原爆死没者慰霊碑』が完成し、発掘1周年の現地で除幕式(1972),原爆ドームが取り持つ縁でチェコスロバキアから友好のバラの苗木約100本が広島市に届く。1978年12月にチェコスロバキアのアロイス・インドラ連邦議会議長がドーム見学、設計者がチェコスロバキア人のヤン・レツル氏と知りバラを送ることを約束(1979),原爆の爆風で吹き飛ばされた元安橋欄干の一部が36年ぶりに元安川から発掘。22点(1981),原爆死没者の納骨堂を建設中の山口市江良の建設予定地から被爆旧軍人の骨片多数を発掘(1984),原爆の影響でいびつだった広島市の人口構成が、ほぼ全国型に回復。市の調査で判明(1986),被爆アオギリ二世が宮城県 女川高校から広島市の被爆語り部沼田鈴子さんのもとに帰る(1990),「ロシアが旧ソ連時代から30年以上にわたり、国内で発生した全放射性廃棄物のほぼ半分に相当する約30億キュリー分の廃液を地中に直接注入」と米紙ニューヨーク・タイムズが報道(1994)
22
23  浦上のカトリック信者300人が浦上天主堂脇の広場で原爆犠牲者合同慰霊祭/原爆犠牲者の初め ての慰霊/長崎年表(1945)
24
25
26
27
28 広島市の下土井氏がアイルランドで競売予定だった原爆投下機エノラ・ゲイのポール・チベッツ機長の『飛行日誌』(1937年から2年間)、『飛行慣熟書の教範』、『エノラ・ゲイ副操縦士ロバート・ルイス大尉の飛行日誌写し』などを入手(1979),『第五福竜丸平和協会』が発足20年。この間、協会が管理する東京・夢の島の都立福竜丸展示館を約220万人が見学(1993),広島市出身の作家、故梶山季之氏の遺志を継いだ『梶山季之基金』が、広島の画家新延輝雄さんが被爆50年を記念して描いた『原爆忌はるかに』を市に寄贈。広島記念資料館東館で除幕式(1994)
29
30 広島原爆の死者78150人、行方不明13983人、軽傷279 97人、罹災者176987人/『広島市空襲被害に関する報告』(1945),広島市議会全員協議会が「都市建設は国家事業で実施するよう」政府に請願書を提出することを承認、市・議会・市民一体で平和記念都市建設の運動展開へ(1948),UP通信などによると「米トルーマン大統領は朝鮮で原子爆弾の使用を考慮中である」と打電(1950),財団法人日本原子力研究所設立(1955),広島市特別名誉市民で精神養子運動を提唱した米のノーマン・カズンズさんがロサンゼルスで死去。75歳(1990)
 
 
出典:図録ヒロシマを世界に/広島平和記念資料館
    年表ヒロシマ核時代50年の記録/中国新聞

広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?《10月》

 
 
1 広島市の人口22万4100人(1947),フロイド・シュモーの建設した『ヒロシマの家』完成(1949),ABCC原爆被爆生存者の全国調査実施(1950)
2 長田新編『原爆の子』刊行(1951),イギリス初の原爆実験成功(1952),第12回アジア競技大会広島が広島ビッグアーチで開幕(1994)
3 アイゼンハワー米大統領が核実験禁止に関する岸書簡に回答「核兵器の製造およびその他の軍備について有効な制限が存在せず、また核兵器を用いて行われる可能性のある奇襲を防止するための査察を、すべての主要国が受け入れることなしに実験は停止できない」(1957),ソ連政府の招きによりモスクワの病院で治療を受けていた長崎市の原爆乙女の一人が3年3か月ぶりに帰国(1961),宇品町の広島『憩いの家』で『被爆者の集い』1000回記念祝賀会/参加人員延べ5万3000人(1965),アイゼンハワー元米大統領が記者会見で「私が大統領だったら、ベトナム戦争の早期終結のためには核兵器使用の使用を排除しない」と強硬論(1966)
5 NHK広島中央放送局跡地で幟町国民学校が授業開始(1945),流川教会の谷本牧師がサンフランシスコで『ノーモア・ヒロシマズ』活動開始(1948),広島こども博覧会開催(1950),原水爆禁止署名運動全国協議会の署名1201万8742人に(1954),山口県内で初の被爆者集団検診が山口市の原爆被爆者福祉会館ゆだ苑で行われ約100人参加(1969),ポーランド『連帯』のワレサ委員長がノーベル平和賞受賞(1983)
6 相生橋(T字橋)開通(1934)
7 核戦争防止国際医師会議開幕(1989)
8 
9 ネール・インド首相広島来訪(1957),北朝鮮が初の地下核実験成功と発表(2006)
10 『平和をきずく児童生徒の会』の総会が幟町中学校で開かれ『原爆の子の像』の制作者に東京芸大教授菊池氏を決める(1956),第18回オリンピック東京開幕(1964),広島バスセンタービル完成(1974),哲学者サルトル氏と作家ボーボワール女史来広原爆ドーム保存へ寄せ書きを残す「日本に存在するただ一つのものであるこの廃墟は、まことに、あの殺りくが、決して2度と起こらないために、みんなが生き、かつ戦うわれわれ意志のあかしである」(サルトル氏)/「あの戦争の恐怖の象徴である、上空から狙われたこのドームは、われわれに、あらゆる力を傾けて平和のために戦う決意を迫る」(ボーボワール女史)(1966),レーガン米大統領に広島訪問を訴える広島市民グループの意見 広告が米紙ワシントン・ポストに載る。米市民に大きな反響(1983),IPPNW広島大会に参加したソ連チェルノブイリ原発事故の消防士と英被曝退役軍人協会長の2人が放射線影響研究所で血液検査(1989)
11 
12 本川小で第2回世界仏教徒会議広島大会(1952),ワールド・フレンドシップ・センターが被爆孤老施設開設(1965),厚生省と広島・長崎両市が今後1年間に76人の在韓被爆者の渡日治療受け入れを決定(1982),大衆演劇『愛と死の傷痕・伸ちゃんの三輪車』完成(1991)
13 ヘレンケラー11年ぶりに来広(1948),広島平和文化センター発足(1967)
14 アメリカ戦略爆撃調査団、広島で調査開始(1945)
15 臨時帝国議会を広島に召集(1894),広島東洋カープ/セントラルリーグ初優勝(1975)
16 
17 アイラ・モリス夫妻から広島市長に手紙「生活に困っている広島の被爆者のため、ヨーロッパ各地で募金活動を開始した。年末には送金」(1961),米政府はソ連に50メガトンの水爆実験を中止するよう呼び掛ける声明を発表(1961),原爆の犠牲となった国民義勇隊(市町村・職場・学校)、学徒隊の約7800人が靖国神社へ合祭(1963),広島市アウシュビッツに象徴される悲惨な戦争体験を二度と繰り返さないようにと『広島・アウシュビッツ委員会』発足(1963),中国初の原爆実験成功(1964),放射線影響研究所西本願寺広島別院で、病理解剖被爆者らの追悼法要。19回目。2年間、232人の霊を慰める(1976),原水禁国民会議が広島での検診に招待していた中国人被爆者、山東工業大副教授 董永増さんが心臓病で死亡。旧広島高等師範学校(現広島大)留学中に被爆(1985),米疾病対策センターが、ワシントン州ハンフォード原子力施設周辺住民2万人の被曝調査をひそかに開始。NBCテレビなどが「1949年12月、同施設から放射性ヨウ素を含んだ煙が放出され住民がソ連チェルノブイリ原発事故の10倍の放射線に被曝」と報道(1988)
18 ヘレン・ケラー女史が如己堂を訪れる(1948長崎),タイル壁画『平和のキャラバン-月』づくりの募金が広島市内で始まる。市民が購入するタイル片で壁画を制作。科学万博会場から広島市に贈られた『平和のキャラバン-太陽』とセット(1985)
19 ノーマン・カズンズ氏が浜井広島市長に広島戦災児育成所の子ども達を米に養子として迎えたいが法的に不可能なので『精神養子運動』を進めたい趣旨の手紙を送る(1949),日ソ共同宣言(1956),被爆死した移動演劇『さくら隊』を悼む『さくら隊原爆忌』が東京・目黒の羅漢寺の原爆殉難之碑前で営まれる(1975),ニューヨーク株式市場で株価大暴落・ブラックマンデー(1987)
20 
21 
22
23 広島市姉妹・友好都市の日/重慶市(中国)
24 世界大恐慌(1929),国際連合発足(1945),インドの国際法学者ラダ・ビノッド・パール博士から広島市民にあてたメッセージが浜井広島市長に届く。「広島、長崎の被爆という受難は、不幸にもその後の人類の歴史を変える力になっていない。両市民は人類の将来に責任の一端を担う新たな努力を今こそしてほしい」(1966),前田正男科学技術庁長官が青森市で、原子力船「むつ」について、「実験船だから故障は当然。わずかの放射線漏れで大騒ぎするのはおかしい」と発言(1976),科学技術庁が韓国による日本海への核廃棄物投棄に関する調査結果を発表「1968年から72年までの5年間、水深2200メートルの韓国領海内に、低レベル放射性廃棄物を詰めた200リットルドラムかん115本を 投棄。環境汚染の心配はない」(1980),米下院エネルギー保存小委員会が「1940年代半ばから70年代初めにかけ、米政府が受刑者や病人などに放射能の人体実験をした」と発表。米エネルギー省の記録から調査。実験数は31回に上り、計695人に 放射性物質を注射や投与。マギー同小委員会委員長がヘリントン・エネルギー長官に実験対象者の追跡調査を求める(1986),四国霊場八十八番礼所で結願寺の香川県長尾町の大窪寺に福岡県八女郡星野村の『原爆の火』を永久保存へ。原爆の火・平和塔の建立式(1988),ビキニ水爆実験による第五福竜丸被曝事件後、米政府が機密保持を理由に日本側科学者の「死の灰」の研究発表に検閲を要求したり、「死の灰」管理にクレームをつけるなど日本政府に再三圧力をかけていたことが、外務省発表の外交文書で判明、補償交渉は27億円要求に対し7億円で決着したことも明らかに(1991)
25 佐々木禎子さんの命日(1955),私立安田女子高の新聞部が文化祭で、日本の歴史教科書の「原爆記述」調査結果を発表。1949年からの文部省検定済み日本史、世界史の教科書160冊を調査。原爆投下日や被害状況、犠牲者数など詳しい説明は14冊のみ。投下期日なし40冊、投下国なし49冊(1975)
26 英国防相、クリスマス島での核実験予定を発表。威力はTNT火薬100万トン級(1954),韓国の被爆者を日本に招いて治療しようと『被爆者救援日韓協議会』結成(1968),『水爆開発の父』エドワード博士がワシントンで「広島への原爆投下は誤りだった」と語る(1982),ゴルバチョフソ連共産党書記長が1990年末までに核ミサイル搭載潜水艦6隻とこれに積載する核弾頭を一方的に廃棄と言明。『北欧非核地帯化構想への第一歩』(1989)
27
28 『平和の時計塔』(1967),広島市原爆資料館周辺を石畳に化粧直し始める(1988)
29 原爆死没者の遺骨発掘作業、似島で開始(1971)
30 『平和の塔』除幕式(1974)
31 ABCCの呉研究所が呉共済病院隣接地に完成(1948),広島市の人口30万435人(1951),ソ連の宇宙飛行士テレシコワ、ニコラエフ夫妻が来広。原爆病院慰問、原爆慰霊碑参拝(1965),天皇、皇后が訪米後の記者会見、広島への原爆投下について「遺憾には思うが、戦争中のことであり、広島市民には気の毒に思うがやむを得なかった」。天皇は戦争防止への強い願いを述べられながらも、戦争責任については「そういう問題には答えかねます」(1975),中国の人民日報(31日付)が「原子力潜水艦動力装置の製造技術を既にマスターし、核兵器を装備した部隊を所有」と、原潜所有を示唆(1985),米スリーマイル島原発事故で炉心の45%が溶融。原子力国際会議で判明(1988),22年ぶりに2回目の原 爆ドーム保存工事開始(1989),広島市の原爆慰霊碑前に「海外旅行にと思ってためていたものです」と45万円現金(1990)
 
 
 
出典:図録ヒロシマを世界に/広島平和記念資料館
    年表ヒロシマ核時代50年の記録/中国新聞社(1945年~1994年)
 

 動員学徒慰霊塔 ≪戦没学徒出身校≫ :広島平和記念公園内

 
青森:県師範 
岩手:県師範,黒沢尻工 
山形:県一女専 
福島:相馬工,若松女,安積女,白河女 
茨城:多賀工専,水海道中
栃木:下野中 
群馬:県師範,藤岡中,富岡中,前橋工,明和女
千葉:千葉中,大多喜中,女師範,県女
東京:帝国大学,商科大学,法政大学,早稲田大学巣鴨高商,日大工,日大四中,明治大,第五商,武蔵野女,大妻女商
神奈川:横浜一商,横須賀商,小田原中,浅野中,皷濤女,松田女
山梨:県高専,県工専,青年師範,県臨教養,都留中,都留女
長野:丸子農商
新潟:新潟高校,相川中,佐渡中 
富山:市立薬業
福井:敦賀中,県立商,県立工,敦賀
静岡:静岡一高,県二師範,浜松工専,静岡市高,静岡中,市一中,浜松二中,島田高商,島田商,静岡市工,中泉農,青年校,由比青年,浜松工,興誠航工,見付中,周知農林,興通信工,大谷中,浜松女商,浜松県女,静岡職女,浜松女,淑徳女,淑徳女商,西遠女,清水女商,誠心女,磐田女,掛川女,沼津女,浦川青女,浦川実女,伊東女,堀之内女,信愛女,藤花女,徳室女,大井女商,石原裁女,日赤看学,榛原女,松崎女,静岡男国民,静岡南国民,三ケ日国民,気賀国民,初倉国民,大渕国民,千代田国民,森町国民,浦川国民,下田南国民,長田西国民,佐倉国民,白羽国民,山香国民,佐久間国民,大嶺国民,浜松南国民,瀬尻国民,浜松聾唖
愛知:県立一中,中京中,豊橋中,豊橋二中,半田中,半田商,豊橋市工,豊橋工,清心女,家政女,豊橋市女,豊橋女商,半田女,国府女,実践女,松操女,新城女,桜ヶ丘女,小野口国民,成岩国民,片葩国民,亀崎国民,惟信中
岐阜:恵那中
三重:四日市商,津工 
滋賀:栗太農,木之本女 
京都:三中,舞鶴二中,師範,洛北実務女,二商
大阪:七工,摂南工専,第一師範,青年師範,市岡商,住吉商,福島商,城東工,生野工,桜之宮工,西野田工,天王寺中,生野中,市岡中,日大大阪中,北野中,成器中,高規中,大阪貿易,東亜電通,日新高,鉄道学校豊中女,市岡女,西華女,浪華女商,住吉女,聖泉女,明浄女,信愛女,金蘭女,八坂国民,大倉商業,茨木中
奈良:宇陀中
和歌山:高野山大学 
兵庫:住友日本工,宗徳校,関西学院 
島根:松江工,三刀屋
岡山:金川中,興譲舘中,関西中,天城中,津山女,城北女商 
山口:徳山中,光中,大津中,安下庄中,下関商,岩国商,岩国工,防府工,見島青年,徳山女,防府女,熊毛女,柳井女,三田尻女,中村女,淑徳女,祝島国民,阿知須国民,高千穂国民,高水国民,麥川国民,岩国中,岩国女,山口中
徳島:海部中,阿波中,名西女 
香川:明善女 
愛媛:三島中 
福岡:九州帝大,浮羽工
長崎:経済専,県師範,海星中,長崎工,県女,市女,瓊浦女,対馬女,純心女
熊本:御船中 
大分:県師範,大分中,鶴崎工,国東農,日出女 
宮崎:妻中
鹿児島:七高,県立中,県立商,岩川工,加治木工,実業校,鹿児島女,家政女,実践女,知覧女,加治木女
沖縄:県師範,県立一中,県立二中,県立三中,県立工,県立農林,県立水産,那覇市商,那覇市二商,女子師範,女子看護隊,県立一女,県立二女,首里女,昭和女,積徳女
大連:満州工専
新京:新京工大,新京二中 
他:女子挺身隊,義勇隊 
 
広島:文理大,高等師範,広島高校,広島師範,広島工専,県立一中,県立二中,県立工,県立高,市立中,市立工,市立造船,修道中,山陽中,山陽工,山陽高,崇徳中,広陵中,松本商,広島電機,呉一中,呉港中,新庄中,吉田農,廿日市工,尾道商,広島女専,県立一女,県立二女,市立一女,市立二女,山中女,進徳女,女学院,安田女,比治山女,女子商,安芸女,西女,祇園女,山陽女,実践女,可部女,呉土肥女,電鉄家政,洋裁校,鍼灸学校,中村女,市一国民,市二国民,市三国民,草津国民,己斐国民,天満国民,三篠国民,広瀬国民,本川国民,千田国民,竹屋国民,袋町国民,白島国民,牛田国民,大手国民,楠那国民,仁保国民,荒神国民,府中国民,大芝国民,呉神原国民,土生国民,船越国民,瀬野国民,伴国民,飯室国民,加計国民,南方国民,八本松国民,西高屋国民,三津国民,新市国民  
 

 

広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?《9月》

広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?《9月》
 
1 関東大震災(1923),第二次世界大戦(1939),平和の泉(1960)
2 ミズリー艦上で降伏文書調印(1945)
3 抗日戦争勝利記念日(1945中国)
8 対日平和条約・日米安保(1951)
9 ジュノー博士来広(1945),広島市長がフランスの核実験に抗議声明、初の抗議電報(1968)
10
11 原爆病院開設(1956),アメリカで同時多発テロ(2001),尖閣諸島国有化(2012中国)
12 1陣学童疎開537人帰広(1945)
13
14
15 広島に大本営設置(1894)
16 平和市長会議の加盟都市数が5000を超える(2011)
17 枕崎台風広島県内死者・行方不明者数2012名(1945),ノーマン・カズンズ氏が原爆孤児の精神養子運動提唱(1949)
18 満州事変・柳条湖事件(1931中国)
19 プレスコード発令(1945),原爆の残り火「平和の火」採取(1945)
20 峠三吉「原爆詩集」刊行(1951),平和の鐘(1964)
21 原子爆弾災害調査研究特別委員会の調査に協力した日本映画社が原爆被害を撮影(1945),国際平和デー(1981)※3
22
23
24 国連が包括的核実験禁止条約(CTBT)採択(1996) 
25 広島市、中央公民館に原爆参考資料陳列室を開設(1949)
26
27
28 
29 日中国交正常化(1972),広島市議会、原爆ドーム世界遺産化を国に求める意見書採択(1992)
30 
 
 
※1 原爆遭難横死者慰霊塔(1957平和記念公園内)
※2 第二日曜日:広島市姉妹・友好都市の日:ボルゴグラード市(露)
    国際連合本部(ニューヨーク)に日本国際連合協会から寄贈(1954/6)された【日本の平和の鐘】は
    毎年二回、春分の日国際平和デーを祝し鳴らされる。世界60ヵ国から集められた貨幣、コインで鋳造されている。
 
出典:図録ヒロシマを世界に/広島平和記念資料館
    年表ヒロシマ核時代50年の記録/中国新聞

広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?《8月》

広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?《8月》
 
1 清国に対し宣戦布告/日清戦争(1894),平和記念公園平和大通り緑化のための供木運動展開/~1958年2月末(1957),平和記念公園にて「平和の灯」点灯式(1964),広島大学平和科学研究センター発足(1975),「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」開館(2002)
2 「原爆投下目標を広島、小倉、長崎、攻撃日を6日」とする最終命令が出される(1945)
3 日本青年会議所から「平和の池」の市への贈呈除幕式(1957)
4 「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」除幕式(1971)
5 広島県物産陳列館(後の広島県産業奨励館)開館(1915),広島戦災供養会、慈仙寺鼻で原爆供養塔の落成式を挙行(1955),広島市婦人会連合会主催の「嵐の中の母子像」除幕式(1960)
6 午前8時15分、広島市原子爆弾投下(1945){広島県警察部長、県下の各警察署に広島市への食糧・救援人員の応援を命じる/水道管や施設の大破により正午頃断水、応急修理のうえ16時から給水再開},平和式典を平和広場(慈仙寺鼻)で挙行。マッカーサー、メッセージを寄せる。濱井広島市長、平和宣言を発表。以後1950年を除く毎年8月6日は平和式典が挙行される(1947),広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)除幕、5万7902人の原爆死没者名簿を奉納(1952),平和式典にローマ法王パウロ6世、メッセージを寄せる(1968),中国放送、平和式典を全米へ中継(1970),平和式典に初めて佐藤首相参列(1971),平和式典に長崎市長が初参列(1973)
7 早朝の米国ラジオが広島に投下した爆弾は原子爆弾である旨のトルーマン大統領声明を報じる(1945),船舶司令官、広島警備命令第一号を発し広島戦災処理を総指揮。
救護所・収容所が設置され罹災証明書の交付・救護食料の配給・尋ね人の相談などに着手(1945),「新型爆弾」で広島被爆と午後3時30分大本営発表(1945)
8 大本営の広島爆撃調査団、広島入り(1945),広島駅前一帯に電灯がつく/午後4時、山陽本線広島~横川間開通(1945),市内の罹災銀行・保険会社、日本銀行広島支店で共同営業開始(1945),
9 午前11時2分、長崎市原子爆弾投下(1945),市内電車が天満町~己斐間の運行を開始(1945),長崎市、平和祈念式に山田広島市長初参列(1973)
10 市内で陸海軍・大学の調査隊などが会議を開催、新型爆弾は原子爆弾であると断定(1945),比治山国民学校を広島戦災孤児収容所とする(1945)
11 この日までに市内での死体処理おおむね完了、道路の障害物の取り除きも完了(1945)
12 広島軍用水道及び広島市水道が竣工、25日通水式(1898)
13 米、マンハッタン計画を発足(1942)
14
15 正午、戦争終結の詔書を放送(1945)
16
17
18
19
20 鎮西鎮台第一分営を広島城本丸に設置(1871),広島~宇品間の仮設軍用鉄道開通(1894)
21
22 韓国併合(1910)
23
24 広島平和記念資料館開館、初代館長に長岡省吾氏が就任(1955)
25
26
27
28 広島折鶴の会、原爆ドーム保存署名運動を開始(1962)
29
30 栗原貞子「黒い卵」出版(1946)
31
 
※8月末:広島駅前にヤミ市が並び始める(1945)
 
出典:図録ヒロシマを世界に/広島平和記念資料館
    年表ヒロシマ核時代50年の記録/中国新聞

恐怖体験?

はじめまして。

  

広島平和記念公園で碑巡りなどの平和のボランティアガイドをしているHiroakiです。

お客様との日々のガイド活動で感じた事などを中心に書いていく予定です。

 

今日は、広島平和記念公園について書こうと思います。

私はこの公園近くに住んでいて5、6年目になります。その前は広島市の西区であったり、安佐南区であったり振り返ってみますと、色々な場所で暮らして来て、自分でもそこそこ中級程度の引越し魔だったのではないかと思っています。

今まで20回近く引っ越しして来たので、そう考えると今住んでいる場所はけっこう長く住んでいる方だと思います。

 

さてそんな住み家の場所柄、日頃の買い物はどうしても八丁堀付近になるので毎日、広島平和記念公園を行き来することになります。

 

よくガイド仲間に、

 

いつも公園にいるのを見かけるね、なかなか勉強熱心なのですね。

 

 

と誤解される場合が多いのですが、実際は単なる日常の生活圏として毎日通行しなくてはならない道だったのでした。

 

わざわざ街へ行くのに平和大橋を迂回して行くのもへんだしなあ。

 

 

そういう訳なので、ほぼ毎日公園内を往復しているわけです。

 

 毎日歩いているので、日々の公園内の変化に気付いたりすることもあり

 

一度、仕事の都合で帰宅時間が遅くなって真夜中に公園を通った時のことでした。

 

 

 

その日は雨が夜半頃より降り始め、私も傘を差してはいましたが少し足早に慰霊碑前を通ったのです。

辺りは真っ暗闇で雨は降っているしで人の気配もありませんでした。いや、ないはずだったのです。

 

ところが、慰霊碑の献花台のところ左右に何か大きな物体が二本、雨が降っていて傘も差しているし初めはよく見えなかったのですが、何か立っているわけです。

 

あの、けっして幽霊の話ではございませんよ。

どうぞ御安心ください。

 

 

あーっ、

 

と心の中で驚いたのでした。

 

真っ暗闇の中、慰霊碑前の献花台の上に長い棍棒を持って雨の中、傘も差さずに機動隊員が二名、直立不動で立っていたのでした。

 

なぜ、こんな真夜中に?何目的なんだろう?

 

と思ったものの、その場で立ち止まることは憚られる気がしたので

さらにスピードを上げて、しかし逃げる風ではなく、通り過ぎたのでした。

 

逃げたらゼッタイ追いかけられそうだ。

 

 

うしろめたいことは何もしてないわけだから逃げる必要もないのですが

なんとなく時間帯も時間帯だし、暗闇の中に長い棍棒を握った運慶・快慶のような

上から下まで黒尽くめの機動隊員はそれ程無言の威圧感があったわけです。

 

久々にホンキのオーラ見たわ。

 

そこ立っちゃいけないでしょ、献花台に。

とは間違えても言えない状況なのでした。

 

 

翌日、天皇陛下広島平和記念公園に来られたのでした。

 

 

そりゃ、仁王立ちで機動隊員が雨、嵐関係なく夜を徹して警護する訳だわ。

機動隊員の皆様、警護大変ご苦労様でした。

 

 

という様な、日々の変化を体験できるのも広島平和記念公園近くに住んでいるならではの恩恵?かもしれませんね。

 

 

棍棒持った運慶・快慶、

 

まじ怖かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全国からの贈り物

はじめまして。

  

広島平和記念公園で碑巡りなどの平和のボランティアガイドをしているHiroakiです。

お客様との日々のガイド活動で感じた事などを中心に書いていく予定です。

 

先月は日頃のガイド活動を充実させるための課外研修に行って参りました。

といっても、原爆に関する樹木を見に一人ぶらぶら散歩に出掛けただけなのですが。

 

書物や資料で知ったつもりでいても実際にどうなっているのかを、出来るだけ

自分自身の目で確かめた方がガイドをする時の何かしらのきっかけに役立ったり、

説得力を増すガイドになると日頃から思っていたので、天気も良いし私の自宅からは少し遠出の散歩となりました。

 

平和記念公園より東へ30~40分歩いた所に『被爆者の森』という区画が平和大通りを挟んだ両側緑地帯にあります。

その緑地帯には全国から広島へ贈られて来た各都道府県の木が植えられています。

北は北海道から南は沖縄まで全国からその地にちなんだ樹木が贈られて植えられているのだそうです。

 

その樹木について、私たちガイド仲間の内でもささやかれている事のひとつに

始めは全部の木が揃っていたが、今現在は何本か枯れていて全国からの樹木は揃っていない。

という噂がありました。

 

私は丁度、その『被爆者の森』に関する資料を最近手に入れていた事もあって、

実際はどうなっているものか、見に行こうと考えたのです。

 

いえ、本当は当初『被爆者の森』の位置だけ確認して帰って来ようと思っていたのでした。

平和記念公園からその場所に直接通じるバス路線もないし、資料に掲載されている樹木は1道1都2府43県の本数ですから、

とても全部の樹木を確認して、さらに自宅からだと片道50分の道のりの往復の散歩は

正直しんどいと思っていたからです。

 

自宅から八丁堀周辺などは毎日仕事や用事とかで出掛けていて、充分徒歩圏内なのでさして苦労はないはずですが、いつもと違うルートの平和大通りを真っ直ぐ東へ進む道は遠い、実に遠い。

いくら歩いても、それらしき緑地帯が視界に入ってこないのです。

目的地の場所がはっきりしない散歩はとても疲れるものでしたが、もみじ饅頭の「にしき堂」を越えた辺りからそれらしき緑地帯が現われて、やっと『被爆者の森』へたどり着く事ができました。

 

ふーっ、やっと着いた。

福山通運の前辺りに案内板の設置もあって何県の何々とい樹木は何処に植えられているといった表と地図が書かれていて、とても分かり易い案内板でした。

 

さてと、場所も分かったし、当初の予定通り帰ろうかなと思ったのでしたが、

 

いやいや、待てよ。

もうこんな遠い所、二度と歩いては来たくないな。

案内板に全ての樹木の位置が書かれているし、全部枯れずに樹木があるかどうか

確認してみようか。

 

もう既に、来た道を10メートルくらい帰りかけた道中に思い直したのです。

既にここまで50分くらいの道のりを歩いて疲れていたのですが、このまま何の成果も上げずに帰るのももったいない気がしたのです。

どうせ、疲れるならここまで来たんだから、もうひと仕事しようか。

ガイドの仲間内でささやかれている真相を確かめる決心をしたのでした。

 

案内板が分かり易い事も手伝って、各樹木には県名のプレートが付いていたので

意外と楽に確認でき、しかも探す道中がとても楽しく感じました。

長崎県の樹木は付いているプレートがその樹木の茂みの中に隠れていて、地図上では確かこの位置にあるはずなんだけどと何度も探してやっと見付け、ああこんな所にいたんだね。なんて。

 

さて、噂の真相は?

 

 

   全国の皆様どうぞ、ご安心下さいませ!

 

 

   全国から広島の地に贈られてきた樹木は

 

 

   すべて元気に育っております。

 

 

           (2015年9月現在)