戦後の旧日本銀行広島支店にて長年警備員をされた難波康博氏の講演会のまとめ

平成29年8月28日

講師:難波康博

演題:日本銀行および原爆当日前後の吉川支店長の活躍、社員の努力

...

【はじめに】

・難波氏は被爆者ではなく当日は岡山に疎開(小1)。

・幼少の頃、当時流行っていたピカドン遊び(ピカドンごっこ)をしていたら

サーベルを持っていた軍人さんに「ピカドン」という言葉を使うな!と怒られた。

・その後、おじが経営していた銀行(現トマト銀行)に就職したが

同じ銀行マンとして原爆から復興した旧日銀広島支店に興味を持つようになった。

いっそのこと日銀に就職すれば原爆の情報を得られると思い転職も考えたが、日銀は中途採用は採らず

中で働く医師や掃除のおばさん等も全て日銀 の社員で入り込む余地が無かった。

日銀のガードは固く、中への調査ですら当時のGHQや番組制作のためのNHKくらいしか入れなかった。

ところが平成4年に旧日銀広島支店が銀行業務を終えてイベント会場になる情報を知り

被爆の事をもっと知りたい目的で全日警の系列会社で警備員の資格を取り頑張って警備員に採用された。

家族には警備員になる事を随分反対されたが押し切った。息子さんは市大の教授。
・著作「消えた伝統の音/日本銀行広島支店編」「街が消えた日/広島財務局編」

【吉川支店長の着任】

1945年6月に広島支店に着任。

当時理事の役職にいた吉川支店長は本来大阪か東京へ赴任すべき立場だったが

たまたま広島支店への着任となった。その理由は今現在も不明。

【空襲対策】

・戦前に広島からは多数の移民が米、ブラジル等にいるので空襲が無いと噂されていたが

吉川支店長はその考えに異論を唱え着任早々に空襲対策に着手した。

特に度重なる宇部の大空襲(7月29日のパンプキン爆弾による大きな被害等)に危機感を感じていた。

・建物の天窓に盛土をした。(参考資料一)

・当時国鉄のお金等余剰金をできるだけ地下の金庫に集めた。

・延焼対策に隣接していた木造建ての三和銀行を8月5日に更地にしたばかりだった。

当時、銀行は建物疎開の対象外施設だったが、空襲により打撃を受けると軍部にお金が回せなくなると

説得し三和銀行の建物疎開にこぎ着けた。(吉川支店長の日記に「強制疎開」との記有)

【8月8日からの営業】

・支払い窓口を12(現在も偶然12)設けたが4、5日経っても両替するだけの人しか来なかった。

しかしそのお金がとても臭く石鹸やクレゾールで洗ったが臭いが取れなかった。あまりに臭くて

応援部隊の一部帰った者もいた。(参考資料二)

・吉川支店長による理事の役職故の決断で、サインと母印だけで500円以内まで払い戻しを決行した。

後に各銀行の通帳と付け合わせたところ嘘を言った人はいなかった。

(阪神・淡路大震災での太陽神戸銀行東日本大震災でのJA銀行でも同様)

・3階財務局の伊達局長は8月6日は県北へ出張していて無事だったが日銀へ戻って来た。

宇和島藩主で侯爵の爵位を持つ伊達局長は軍部に顔が 利いた為、憲兵を呼んで建物の出入り口警護や

食料の調達等を手伝わせた。「(食料貯蔵庫の)蔵を破れ!」

・8月4日から15日までの「総勘定元締め帳」は空白

【難波氏が日銀関係者を取材して聞いて来られたお話】

被爆後、赤ちゃんを抱いたお母さんが日銀に来て一晩中その赤ちゃんに水をかけて泣き叫んでいた。

どう見てもその赤ちゃんは炭化していて生きているとは思えなかった。

そして翌朝そのお母さんは赤ちゃんを抱いたまま日銀の二階から飛び降りた。

それを見ていた女学生は止めることも出来ずただ見守ることしか出来なかった。

(死んだ方が良いと思った)

しかしそのお母さんが抱 いていたのは赤ちゃんではなく黒焦げになった枕だった。

・吉島刑務所の看守さんから伝えて欲しいこと。

被爆当日、比較的爆心地から離れた吉島刑務所も被害を受け建物も破壊され多くの囚人が逃げ出した。

入れ替わりに今度は多くの被災者が助けを求めて建物内に入ってきた。

その内、逃げ出した囚人が刑務所に戻ってきて今度は被災者を看護し始めた。決して外に出ようとはしなかった。

それでも数名脱走者もいたが刑務所のトップが敢えて追わせなかった。

彼らはこれからの広島の復興に役立つからとの理由で。

『世界平和カレンダー366日今日は何の日?』情報募集!

『世界平和カレンダー366日今日は何の日?』

 

①『The World Peace Calender ~what is today?』

※Please tell me your country's Peace Memorial Day with the source.

②『広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?』

 

を日本中、世界中の皆様と共に完成させたいと思っています。

皆様からの情報を常時、お待ちしております。情報提供して戴ければ幸いです。

その際、既存情報以外は情報の出典と共にお知らせ下さい。

皆で作っていきましょう!よろしくお願い致します。

 

 

広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?《7月》

 

 

1 ビキニ核実験(1946),平和記念公園内に国際会議場オープン(1989)

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4 ビキニ調査船俊こつ丸が東京帰港、海水の最高7000カウント(1954),南アフリカが米との濃縮ウラン供給交渉が決裂と発表。「供給を絶たれても独自に濃縮ウランを生産し予定通り核開発を進める」(1979),松山市竜仙院で「おこり地蔵を語りつぐ子供の会」が結成(1982),広島YMCAの玄関にある旧済美国民学校の碑の横に、峠三吉氏の詩「墓標」を彫った銅板(1984),広島市が原爆供養塔に安置された遺骨のうち名前の分かる914柱の納骨名簿を全国の自治体へ郵送。10回目。全国1486カ所公共施設などで一斉に張り出し遺族らの連絡を待つ(1994)

5 広島市政100周年と広島城築城400年記念式挙行(1989),平和記念資料館本館が戦後の建築物としては初めての国の重要文化財に指定される(2006),萩反射炉など「明治日本の産業革命遺産」が世界文化遺産登録決定(2015)

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7 盧溝橋事件・日中戦争始まる(1937)

8 広島市で「海と島の博覧会・ひろしま」開幕(1989)

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10 広島市姉妹・友好都市の日:モントリオール市(カナダ)

11 米政府原子力委員会のシールズ・ウォーレン医学部長が議会で広島・長崎の原子爆弾の効果について発表「現在までのところ原爆の放射能にさらされた人々の被病率が高まっているということはないし、爆発の永続的な作用もみられない」(1949),放浪の画家山下清氏が原爆慰霊碑と原爆ドームを写生(1956),広島市議会が原爆ドーム保存決定(1966),広島東署の倉庫から見つかった「戦災死亡者イロハ名簿」で肉親の名前確認相次ぐ(1973),南アフリカ原子力委員会のアルベルツ副委員長が「必要とあらば原爆を造ることができる」と発言(1974),爆心地から2.6キロで被爆した被爆者が2キロで線引きは納得できないと原爆症認定却下で国に不服申し立て(1981),長崎原爆投下機の爆撃手カーミット・ビーハン氏から長崎市に届いた謝罪訪問の意向に対し、市が招待を断る返書郵送。氏の後悔と苦悩に理解を示す一方、「会いたくない」との被爆者の声も。招待拒否に抗議も(1985),広島大名誉教授の森滝市郎さん(原水禁国民会議代表委員)の日記を基にした「ヒロシマ40年ー森滝日記の証言」(中国新聞社編)が平凡社から出版(1985),英BBC放送がエジプト、イスラエル両国が1973年10月の第4次中東戦争の際、互いに核兵器を配備し核戦争一歩手前。と報じる(1985),1970年代、ソ連ウラン鉱山で受刑者が高濃度のラドン、放射性ガスにさらされて働く様子を撮影した英のドキュメント映画「核収容所」がロンドンで公開(1986)

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16 米、ニューメキシコ州アラモゴードで世界初の原爆実験/トリニティ実験(1945)

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18 米陸軍省招待のマイルス・ボーンUP通信社東洋方面副部長らが広島市を視察、「原爆1号」と呼ばれた広島赤十字病院で入院中の吉川清氏が訴え「私は研究材料となり渡米して米の科学者の実験台に上りたい、世界永久平和のために役立つことができるなら死んでも問題ではない」(1947),米海軍岩国基地のF4Bファントム戦闘爆撃機が岐阜県美濃加茂市の山林に空対空ミサイル1個を誤って落とす。同基地は「核装備はしていない」(1969),広島市の原爆被災復元委員会が「爆心から2キロ以内にあった30町のうち85%の戸別地図が復元できたが15%の786世帯は不明」と中間報告(1970),二階堂進官房長官が記者会見でABCCの財政負担について「出来得る限り折半に努力」と表明。1972年度のABCC予算は米側16億3600万円、日本側7400万円(1973),東京電力福島第1原子力発電所2号機が運転開始。日本の商業用原発の営業は7基、約306万キロワットと米英に次ぐ第3位の原発国に(1974),文部省が日本被団協との交渉で新中学校学習指導要領原案で削除されていた核問題の記述を復活させると回答。初等中等教育局は「被爆者の気持ちや立場は十分に分かるし、平和教育の後退と心配する声もあるので省内で検討した結果復活させる(1977),木島等長崎市長ソ連の核実験に対し、抗議文を持って東京・麻布台のソ連大使館に出向く。大使館側は受け取り拒否(1979),広島、長崎のジャーナリストやケースワーカーらが「原爆孤老」発刊(1980),核燃料サイクル3施設の立地を青森県六ケ所村に決定(1984)

19 原爆投下直後に記された伝言が壁面に残っていることが判明した市立袋町小学校の部分保存工事が始まる(2000)

20 韓国人原爆犠牲者慰霊碑を平和記念公園内に移設(1999)

21 広島芸北地方で集中豪雨、14名死亡(1988),東京上野東照宮境内「広島・長崎の火」モニュメント完成(1990)

22 原爆死没者慰霊碑の碑文決定/文案・執筆は広島大学教授雑賀忠義(1952),広島市民球場完成(1957),第55回パグウォッシュ世界大会(2005/7/22~7/27:広島)

23 原爆死没者慰霊碑の改装工事始まる/翌1985年3月26日完成し除幕式(1984)

24 模擬原爆パンプキン爆弾が全国49カ所で投下され多数の死傷者を出す。この日はその内9カ所での被災(1945/7/20~8/14),県知事、8月6日に全県民が黙とうするよう呼びかける(1964)

25 日清戦争開戦(1894)

26 模擬原爆パンプキン爆弾が全国49カ所で投下され多数の死傷者を出す。この日はその内10カ所での被災(1945),ポツダム宣言、日本の無条件降伏を要求(1945)

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28 第一次世界大戦始まる(1914)

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30 原爆被爆者療養研究センター「神田山荘」開所(1973)

31 縮景園の被爆者遺骨の発掘開始/8月6日平和記念公園の納骨堂に安置(1987)

 

7月中:①市、爆心地の慈仙寺鼻に戦災供養礼拝堂を建設(1946)

➁長崎原爆で死亡したオランダ兵捕虜6人の名前が分かり原爆殉難者名簿に追加(1979)

 

※出展:図録 ヒロシマを世界に/広島平和記念資料館

年表 ヒロシマ<核時代50年の記録>/中国新聞

広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?《6月》

 

 

1 原民喜三田文学に「夏の花」発表(1947),広島平和記念館開館(1955),被爆建物広島地方気象台、改修され全国初の気象博物館「広島市江波山気象館」として開館(1992)

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5 重慶爆撃(1941中国),彫刻家柳原義達氏が寄贈したラ・パンセのブロンズ像が広島平和大通りのアメリカ文化センター前緑地帯に設置され除幕式(1953),広島YMCAは世界各国8500カ所のYMCAへ原水爆実験反対を訴える手紙を送ることを決める(1957),米原子力軍事政策の理論的総師リビー博士が「核実験に伴う危険は核兵器を放棄する結果生じる危険より小さい」と主張(1957),原爆ドームの頂上によじ登った岡山県の青年が説得されて降りてくる途中に転落、死亡(1966),原子力潜水艦スコーピオンは99人の乗組員とともに救助不能な大西洋の深海に沈没。と米海軍発表(1968),日本原子力研究所東海研究所内でプルトニウム廃液のびんが破裂し部屋が汚染。衆院科学技術振興対策特別委員会で明るみに、事故は4月、放射能は許容量以下(1969),核禁止アピール被爆者の会、代表が東京の在日米大使館を訪れ「米軍岩国基地の核訓練を止め核兵器を直ちに撤去せよ」とのニクソン米大統領宛の抗議文を手渡す(1972),日本非破壊検査会社水島出張所が5年前に使い古しのイリジウム192を違法に空き地に埋めていたことが判明。倉敷保健所が住民の健康診断へ(1974),第2回日米核燃料再処理問題交渉で米が東海村再処理工場の操業方法に関し「プルトニウムの単体抽出は認めない」との方針を示す。日本側は核兵器転用が不可能な代替抽出方法を提案(1977),米空母ミッドウェーが横須賀寄港。社会、共産両党などの抗議船22隻が取り囲み陸上でも約2500人が集会やデモ。岸壁では第7艦隊自衛隊が歓迎マーチ演奏、自民党二階堂進総務会長、源田実国防部会長らが寄港を歓迎。外務省首脳が「ミッドウェー寄港延期を米側と交渉したが①延期するとかえって疑惑を深める②次の寄港がもっと激しい反対を招く。と拒否された」と述べる(1981),広島市元安川河床美化事業で掘り出した被爆瓦の一般公開と希望者への配布を開始。初日に200人が持ち帰る(1982),「中国がソ連向けに114~155基の核弾頭装備弾道ミサイルを配備」と米国防総省が発表(1984),全国ほたる研究会のメンバーが結成20周年を記念し広島市三滝の原爆無縁墓で全国から持ち寄ったホタル1300匹を放し犠牲者の冥福を祈る(1987),広島国税局が開局40周年を記念し原爆ドーム保存募金に142万9400円を寄付(1989),米下院が1950年代の大気圏核実験で被曝し、がんなどにかかった周辺住民の健康被害補償法案を可決、上院へ。補償額は1人当たり5万ドル、ウラン鉱山の被曝労働者は10万ドル(1990),日本被団協が1985年に実施した原爆被害者調査の最終結果を発表。死を免れた被爆者のうち63%の8281人が「何らかの罪意識」。「助けられなかった」(7%)「負傷者に水をやらなかった」(3%)など(1993),1991年11月、ロシア軍ミサイル運搬船の「新型ミサイル」がサハリン南部でしけのため海中に転落。ロシア国防相が指揮したが回収できず(1993)

6 日本被団協が全国理事会で結成30周年を記念し広島市内に「被爆者の森」建設を決める(1986)

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8 故ルーズベルト米大統領夫人のエレノア・ルーズベルトさん広島市訪問(1953)

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12 スイスで開かれるMRA運動世界大会に向け広島県知事、市長、市議会議長一行が羽田出発、浜井市長が16日の会議で「真の平和は単に祈ったり希望しただけでは確保されない」(1950),丸木位里、俊夫妻が水爆をテーマにした「焼津」を東京都美術館のニッポン展で発表(1955),日本向けモスクワ放送の原爆投下について「ソ連は当時米に対して原子兵器を使用しないよう提案したが米はこれを拒否した」これに対して「デタラメだ。スターリン元首相は新兵器を使うべきだとの点でチャーチル前英首相および私と完全に意見が一致していた」と米トルーマン大統領が反論(1956),広島逓信病院院長に手術中に亡くなった原爆乙女、中村さんの死亡模様を綴った手紙が手術渡航先の米ニューヨークの病院より届く(1956),日本初の原子力船「むつ」が石川島播磨重工東京第2工場で進水式青森県むつ市へ自力回航し原子炉を積み込んで1972年1月完成予定。公表された原子力船としてはソ連のレーニン、米のサバンナ、西独のオットーハーンに次ぎ世界で4隻目(1969),高陽中学校生徒会が広島原爆病院にホタルを贈る1958年以来15回目(1972),米政府原子力委員会がワシントン州リッチランドの放射性廃棄物貯蔵タンクから過去最大の放射能漏れ事故があったと発表、11.5万ガロン(米タイムズ紙は50万ガロンと報道)。「漏れた放射能は地上には拡散しておらず一般への危険はない。しかし、5~6万キュリーの放射能が地下で消滅するには150年はかかる」とハンフォード原子力研究所の所長談(1973),広島大構内で「原爆死没者追悼の碑」起工式/死没者702人内訳:広島文理科大21、広島高師23、同付属小・中32、広島女高師・山中高女395、広島工専90、広島高校31と各校の教職員110、文理科大や高師に在学していた東南アジア・中国・モンゴルの留学生7(1974),米政府が「核兵器の保有、使用を放棄した非同盟国に対しては核攻撃しない」と声明(1978),広島県山県郡戸河内町、上殿小の児童が広島赤十字・原爆病院を山ユリ慰問。毎年続け40回目(1989),原水禁国民会議北朝鮮訪問団が平壌市内で広島、長崎の被爆者5人と交流(1991),被爆直後、広島赤十字病院で治療を受けた被爆者や当時の医師、看護師らが手記集「いのちの塔」を出版(1992)

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14 慢性骨髄白血病でABCCに入院していた比治山女子高生が同級生522人の献血も届かず死去。「被爆者健康手帳がないため治療も十分にできず、無料のABCCに入院させていた。被爆二世に援護の手が差し伸べられていない現状が残念」と母親談(1969)

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18 広島原爆死者20数万人(1953)

19 米上院軍事委員会が米海軍を原子兵器で武装した原子力潜水艦を建造する法案を承認(1950),米原爆スパイ事件のローゼンバーグ夫婦に死刑執行(1953),広島市中島地区の復元銅板地図、平和記念資料館に設置/贈呈式は7月9日(1972)

20 広島市、爆心に「平和記念公園」建設決定(1948)

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22 日韓基本条約調印(1965)

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24 原爆死没者の検死調書、広島東警察署で見つかる(1968)

25 朝鮮戦争勃発〈ユギオ〉(1950韓国)

26 国際連合憲章署名日:サンフランシスコ会議で51カ国署名、日本は未だ(1945)

27 胎内被爆小頭症患者とその親の集まり「きのこ会」発足(1965)

28 アメリカ、スミソニアン航空宇宙博物館で「エノラ・ゲイ展」開幕当初の展示計画が大幅に変更される/~1998年5月18日まで(1995),石見銀山遺跡〈大田市〉が世界遺産登録決定(2007)

29 六月民主抗争(1987韓国),集中豪雨、広島市呉市を中心に広島県内で死者・行方不明32人(1999)

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※出典:図録 ヒロシマを世界に/広島平和記念資料館

           年表 ヒロシマ<核時代50年の記録>/中国新聞

 

広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?《5月》

 

 

1 故ジュノー博士の手記「広島の惨状」が広島市に届く(1974),広島市制作の原爆記録映画「ヒロシマ・母たちの祈り」が完成、一般公開(1990),ブッシュ米大統領がイラク戦争の戦闘終結を宣言(2003)

2 日本で初めてサマータイム実施/1952年廃止(1948),全国太平洋戦争戦没者慰霊式に合わせ広島市民広場で広島県・市戦没者合同追悼式。日中戦争以降の県出身戦没者8万4738柱慰霊/陸軍56644柱、海軍17151柱、原爆犠牲者等10943柱(1952),日本政府のネバダ核実験中止要請に対し「国際的に完備された監視機構がない現状では核爆発の実験を中止できない」との米政府の意向が明らかになる(1957),アイラ・モリス夫婦が私財を投じて宇品町に設立した「憩いの家」開所式(1957),外務省が国際資料部内に軍縮班設置。一方で政府内に「わが国が展開してきた核実験抗議・反対の政治的効果は外交上ほとんど限界に達した」との認識が強まり「唯一の被爆国の強調も西側の団結にひずみを与えているのではないか」の疑問も出る(1963),鉄道建設審が北海道・東北、北陸、九州3新幹線について建設を答申(1972),広島市の被爆者相談電話がスタート(1977),朝永振一郎湯川秀樹ら「科学者京都会議継承委員会」の5人が安倍晋太郎官房長官に「国連軍縮特別総会で核軍備削減決議案提出」など福田首相あての要望書手手渡す(1978),広島で初めて原爆を特集した雑誌「中国文化」創刊号が当時の編集人の栗原貞子さんらの手で復刻(1981),科学技術庁が「チェルノブイリ原発事故発生当時に現場から北300キロのモギレフにいて帰国した日本人技師4人からヨウ素131、セシウム137を検出」と発表(1986),在韓被爆者との交流を図ろうと広島の語り部らでつくる「ヒロシマを語る会」の11人が訪韓(1989),広島市姉妹・友好都市テグ広域市(韓国)の日(1997)

3 第1回ひろしまフラワーフェスティバル開幕(1977),広島市現代美術館開館(1989)

4 五・四運動(1919中国)

5 原爆の子の像、除幕式。約一万人が参加(1958)

6 丸木美術館〈埼玉県〉完成(1967)

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9 米ロサンゼルス広島県人会から「子供たちに図書館を」と広島市に400万円寄付(1950),広島市内の戦災孤児の里親らが市里親協議会を結成(1951),原爆乙女らニューヨーク近郊のミッチェル空軍基地に到着。ノーマン・カズンズ氏らが出迎え(1955),国内精神養子運動終わる。広島子どもを守る会の国内精神親制度は子供が成長したためピリオドを打つ(1964),公園内の平和の像「若葉」の除幕式/圓鍔勝三氏作・湯川秀樹氏の平和祈念の歌(1966),米国が持ち帰った広島・長崎被爆資料返却(1973),南アフリカのフォルステル首相が「われわれはウラン濃縮技術は持っており、しかも核拡散防止条約には調印していない」と述べ核兵器保有能力を示唆/米誌ニューズ・ウィーク(1976),日本山妙法寺が日本原水協原水禁国民会議の両組織に「統一世界大会を開催し、その決議に基づいて新しい組織を年内に結成するよう」文書で申し入れ(1977),資料館が1984年度入館者数まとめる。総数は144万7000人と過去最高(1985),中国ロケット工学の父銭学森国防科学技術工業委員会副主任があ北京で外国人記者団と会見「中国のこれまで核実験の過程でごく少数ながら死者が出ている」当局者として初めて核実験の犠牲者を認める(1986),台湾経済部がチェルノブイリ原発事故に伴い台湾4番目の原子力発電所建設計画の一時凍結を表明(1986),広島市の語り部・金崎さんの紙芝居がアニメ映画「天に焼かれる」に(1988),米水爆搭載機水没事故で、環境保護団体グリーンピースが航海日誌から「事故の2日後、米空母タイコンデロガが横須賀港に4日間停泊」と確認。日本への核兵器持ち込みがほぼ確実に(1989),在日本大韓民国居留民団広島県地方本部の沈東烈団長ら新役員が広島市役所を訪れ、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園への早期移設で協力要請(1991),レストハウスを1929年に撮影した写真3点や図面などを施工の清水建設が保存(1994)

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11 原爆の子の像の折り鶴約5000羽が不審火で焼失(1992),インド、地下核実験を実施。1974年以来24年ぶりの実験(1998)

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13 市、被爆建物等保存・継承事業費補助金交付要綱を制定。爆心地から5キロメートル以内で最高3000万円を助成。旧広島赤十字病院の窓枠・壁の保存が適用第一号となる(1993)

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15 沖縄返還(1972)

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18 光州事件(1980韓国)

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26 日本銀行が旧日本銀行広島支店を市に無償譲与する方針を決定。7月25日、広島市指定重要文化財へ(2000)

27 広島市姉妹・友好都市ハノーバー(ドイツ)の日/広島市議会承認の日は6月27日(1983),原爆投下直後に多数の負傷者が運ばれた似島で、市の試掘調査で人骨11点が見つかる(2004),米オバマ大統領広島訪問、平和記念資料館見学。現職の米大統領として初(2016)

28 パキスタンが初の地下核実験を実施(1998)

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30 ※入野忠芳氏広島拘置所の壁画修復完成(2013)

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※広島拘置所の壁画作成は1989年に広島市市制施行100年・広島城築城400年記念事業の一つとして計画され、修復は2009年から五年間かけて作成された

 

出典:図録ヒロシマを世界に/広島平和記念資料館

年表ヒロシマ核時代50年の記録/中国新聞

広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?《4月》

 

 
1 広島に市制を施行(1889),国家総動員法公布(1938),教育基本法/学校教育法施行、従来の国民学校は小学校と改称(1947),広島平和記念公園完成(1954),広島復興大博覧会開催~5月20日(1958),ラジオ中国〈現中国放送〉がテレビ放送開始(1959),広島県人口50万人(1964),広島・長崎で(財)放射線影響研究所開所/ABCCを改組(1975),財団法人としての広島平和文化センター発足(1976),広島市政令都市/全国で10番目(1980),広島市立大が広島平和研究所開設(1998),ヒロシマピースボランティアが活動を開始(1999),「原爆の子の像」の周囲に屋根付の「折り鶴台」が完成(2002)

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3 済州島四・三事件(1948韓国)

4 広島市戦災児育成所の原爆孤児の少年僧2人が龍谷大学に合格、特別奨学生に(1953),日本血液学会で被爆者の血液像所見をめぐり日米の学者が対立、米側の「年月とともに健康人と大きな差がなくなっている」という報告に対し、日本側は「末梢血液に変化がなくても骨髄に異常があり、白血病の発生率は下がっていない」と反論(1957),映画「渚にて」(スタンリー・クレイマー監督)が広島上映(1960),沖縄在住の被爆者に被爆者健康手帳交付へ(1967),米の黒人運動指導者キング牧師がメンフィスで撃たれ死亡、各地で黒人の抗議運動起きる(1968),原爆孤児の施設「似島学園」の卒園生らが創設者で初代園長の森芳麿氏の胸像を作り除幕式、1971年までに同学園を巣立った子どもは約1300人(1971),被爆者援護法の制定を求めて2つの広島県被団協が分裂後初めての統一決起集会。「被爆援護法がもう一歩で実現できる段階。大切な時に被爆者が一丸となって行動がとれ、今後の反核運動にも道を開く」と原水禁国民会議森滝市郎理事長(1977),原爆乙女の渡米治療などに半生を捧げた広島流川教会の前牧師谷本清さんに、母校の米エモリー大から功績を称える感謝状(1982),原爆ドーム設計者ヤン・レツル氏のめいエミリアナ・ヘイズラロウバさんがドーム保存と世界平和を願って広島「折鶴の会」に便り(1989),「クリントン米政権が『北朝鮮がほぼ間違いなく少数の核兵器保有に成功しつつある』と認め、保有数拡大阻止に方針転換」と米誌タイムが報道。また、北朝鮮外務省がIAEAの再査察受け入れを求める国連安保理の議長声明採択を強く非難し、拒否の声明発表(1994)

5 オバマ米大統領がプラハで演説し「原爆投下国の道義的責任」として「核兵器のない世界に向けた具体的な措置を取る」と宣言(2009)

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7 第二総軍司令部を広島市に設置(1945)

8 「原爆の子の像」建設のための街頭募金運動始まる(1956)

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10 原爆ドーム保存工事起工式(1967),韓国人原爆犠牲者慰霊碑(1970),瀬戸大橋開通(1988)

11 戦後初の外国人民間観光団(オーストラリア/20人)が広島市を訪問(1949),トルーマン米大統領がマッカーサー元帥を解任(1951),第一回「広島まつり」始まる(1952),長崎市議会から広島市議会に贈られたソテツを平和記念公園に植樹(1953),琉球立法院が原水爆基地化反対を決議。米は沖縄での原水爆基地建設を中止し一切の核兵器を持ち込まないよう要請(1958),米の「平和のための国際的婦人ストライキ運動」の婦人らがケネディ大統領に面会して大気圏核実験中止を要請するためホワイトハウス前で24時間スト(1962),米海軍作戦部長が原潜スレッシャーが129人を乗せボストン沖で失われたと発表(1963),香取正彦氏制作の「平和の鐘」が広島市に到着(1964),ニクソン元副大統領が広島市訪問(1964),広島の原爆資料館の外国人公式訪問者数が1983年度初めて100人を突破し118人/73年度6人/77年度33人/78年度50人/79年度96人(1984),広島・長崎両市長が5月の東京サミットで核廃絶提案と各国首脳の被爆地訪問を実現するよう安倍晋太郎外相に要望書(1986),紙屋町地下街シャレオ開業(2001)

12 袋町小学校平和資料館が開館(2002)

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15 毛利輝元広島城築城の鍬始めを行い、五ヶ村を広島と命名(1589),日本ペンクラブ「広島の会」広島市で開幕、平和宣言を発表(1950)

16 広島県天皇の広島大本営滞在を記念し、4月27日・9月15日を学校記念日とする(1896)

17 日清講和条約調印(1895)

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19 四・一九革命〈サイルグ〉(1960韓国)

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23 サッカーJリーグ、サンフレッチェ広島球団設立(1992),呉市大和ミュージアム開館(2005)

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26 ソ連チェルノブイリ原子力発電所炉心溶融事故発生(1986),湾岸戦争海上自衛隊初の海外派遣、呉市から掃海部隊がペルシャ湾へ(1990)

27 明治天皇、広島を出発し大本営が広島から京都へ移される(1895)

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29 瀬戸内しまなみ海道全線開通(2006)

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4月:大本営跡前庭に噴水地「桜の池」を設置(1898)

 

※出典:図録 広島平和記念資料館 ヒロシマを世界に/広島平和記念資料館

年表 ヒロシマ核時代50年の記録/中国新聞

広島平和記念公園カレンダー366日今日は何の日?《3月》

 

1 独立運動記念日・三一節(1919韓国),マーシャル諸島ビキニ環礁で米が水爆実験、第五福竜丸被爆(1954),広島市公会堂完工(1955)

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3 米コロンビア大で核分裂実証実験成功(1939)

4 「元大正屋呉服店を保存する会」などの団体、広島市レストハウス保存を求める署名を提出(1996)

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7 広島市復興審議会が都市計画決定。空港は観音新開、市役所は国泰寺町に(1947),第1回広島県学校復興宝くじの抽選発表が広島東宝映画劇場で。特等20万円、特賞総桐たんす(1948),第4回広島、長崎両原爆都市青年交歓会が長崎市で開催(1953),「原爆文学」論争で日本歌人クラブ会員の深川宗俊氏が「悲しみに耐えてー『原爆文学』論を中心に」を中国新聞夕刊に掲載(1953),衆参両院の原爆実験禁止要望決議について英政府が回答文「英およびその同盟国が核兵器を所有することが、侵略と大規模戦争の発生を防止するため主要な要素であると考える。実験はこれら兵器の発達過程における不可欠の部分にほかならない。・・・今後の実験に際しては、人命、財産に対するいかなる被害をも回避するため可能なあらゆる手段を講ずる」(1956),高山信武統幕会議事務局長が呉地方総監部を視察。「防衛庁は原爆戦下における戦略戦術は考えている。防御用原子兵器としてのロケット、誘導弾、これに伴う航空兵器など7種類を研究用として米から供与を受ける」(1957),日本原水協などのクリスマス島水爆実験抗議船団の派遣に広島市内の河本一郎さんと上松時恵さんが名乗り。「原爆の洗礼を浴びたわれわれが無言の抗議を行い、人類の危機を救いたい」(1957),原水禁広島協議会が企画した紙芝居『手をつなぐ世界のこどもたち』(作・鈴木正道氏、絵・四国五郎氏、全巻200枚)が完成し広島で発表会(1957),ジュネーブの国際海洋法会議でポーランド、イエメンが公海での核実験禁止を海洋法に盛り込むよう提案(1958),広島原爆病院を治療途中で退院した韓国人被爆者女性2名が帰国。日本政府に申請していた被爆者健康手帳の交付は実現せず(1969),国鉄の理事会が広島市内の宇品線を4月1日から廃止決定。宇品線は1966年12月から広島―上大河町2.4キロの定期旅客と貨物を残し既に廃止(1972),長崎で被爆した元オランダ兵捕虜のH・V・ミエロブさんが治療のため長崎に(1978),広島市翠町中学校に米平和運動家アリス・ハーズさんをしのぶ記念碑が完成、除幕式(1983),故周恩来中国首相の生誕90周年を記念する追悼文集『尽きぬ思い』が発売。中国の原爆開発秘話を掲載。「1964年10月16日の最初の核実験は失敗に備え2発用意」「文革中に1度、水爆実験に失敗」(1988)

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10 東京大空襲(1945),雑誌「中国文化」創刊、栗原貞子氏の詩「生ましめん哉」掲載(1946),峠三吉氏36歳で死去(1953),岡山ー博多間山陽新幹線開通(1975),第3回目の原爆ドーム保存工事完了(2003)

11 東日本大震災(2011)

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14 広島県など主催の県産業復興展覧会が広島市で始まる(1947),中国の王世李*《「李」の漢字表記:「木」の下は「子」でなく部首の「れっか」》外交部長が言明。「現在、原子爆弾の秘密を知っているのは米英カナダに限られているが、5年後にはこの秘密は世界に知れ渡るであろう。原子爆弾戦争を避けることは世界の政治家に課せられた緊急課題」(1948),故原民喜氏の詩碑の銅板盗難で柴村春文氏が「民喜『詩碑の記』銅板どろぼうよ」と題した詩を中国新聞夕刊に掲載(1953),原爆乙女の平和の悲願を壁画にして寄贈したいと大阪市の栄養化学株式会社が阪大病院に申し出。入院中の乙女の心に打たれる。壁画制作は伊藤継郎画伯に委託(1953),第五福竜丸が焼津港に帰港。乗組員23人の中で重症の2名を東大病院で診察(1954),トルーマン前米大統領が原爆投下問題で広島市議会議長に返書を発送。「広島市民の感情は容易に理解できるし、市議会の決議によって私の感情はいささかも傷つけられるものではない。広島と長崎の犠牲は日本と連合国の将来の福祉のためにせっぱつまった必要な措置だったと考える。もし日本が1941年12月にパールハーバーで闇討ちを仕掛けなければ、このような重大決定をする必要はもちろん決して起こらなかったであろう」広島の関係者は「なんの反省もない」と怒り(1958),起爆装置をつけない核弾頭を積んだ米空軍のB52が米カリフォルニア州コバシチー近くに墜落(1961),ユーゴスラビア訪日団が原爆資料館など見学、原爆病院にブロンズ像「花を抱く少女」贈る(1965),ビキニ米水爆実験で死の灰を浴びたマーシャル諸島ロンゲラップ島の村長が広島入り。広島原爆病院院長と荒木市長を訪ね専門医師派遣の協力要請。ロンゲラップ島では86人が死の灰を浴び既に20人が死亡。残った66人のうち33人が甲状腺手術を受ける(1975),米ユタ州立大教授が広島の放射線影響研究所を訪れ、ネバダ核実験被曝米兵を1957年から調べていたと公表。被曝米兵を放置してきた米政府を批判(1978),米ロスアラモス国立研究所オッペンハイマー所長が1945年にプルトニウムを人体に注射する実験を支持する手紙を書いていたことが判明(1994),アストラムライン工事現場で橋桁落下事故15名死亡(1994)

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18 広島・市内3番目の原爆特別養護ホーム「矢野おりづる園」完成(2007)

19 昭憲皇太后、広島に行幸(1895)

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22 NHK広島開設(1956)

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24 芸予地震広島県で死者1名(2001)

25 西練兵場で臨時招魂祭、日露戦争の戦病死者3450人を合祀(1906),アインシュタイン博士が原子力政策に関してルーズベルト=シラード会談を提唱(1945)

26 安重根処刑の日(1910韓国),米軍が沖縄に上陸(1945),広島市、爆心地から半径約2キロメートル以内の被爆樹木に説明プレート設置(1998)

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28 マツダスタジアム完成(2009)

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31 広島市、広島平和記念都市建設計画を決定(1952),広島大が東広島市への統合移転完了(1995)

 

 

※出典:「図録 ヒロシマを世界に/広島平和記念資料館」,「年表ヒロシマ<核時代50年の記録>/中国新聞/1995年発行」,他